第三章(一)
春の祭祀は間近に迫っていた。垂がこうして海辺の館へ入ったのもそのためだ。
航路の安全にも関わるこの祭祀には、半島の北の天宮と、二上川で結ばれた内陸の二野からも使者がやってくる。彼らの一団はすでに布瀬の水辺に到着し、田津比古のもてなしを受けていた。
しかし、垂はまだ、彼らに拝謁を許していない。
夫から受け継いだ館の中。幣をたらした縄の結界を張り、垂はその中に閉じこもっていた。
斎屋で寝起きし、結界の中にある祭殿へ移動する時や、神前に奉る榊をとるため、水を汲むため井戸に近づく以外、日の光を見ることもない。そうして御禊に努めている。
ところが、魂を飛ばして向かう白い靄の中、いまだに地霊は遠巻きに垂を見つめているだけで、近寄ってくることはなかった。
新しく祭壇に供えるための榊をひと枝刈り取り茜が持っていた笊に乗せると、つい溜め息が漏れた。
茜や自分がまとう白一色の衣の眩しさが憂鬱だ。日射しは日毎強くなる。それだけ祭祀の日取りが近づいているということ。
神器を扱うことさえ出来ればいい――田勢比古の祭祀を手伝ってきた自分に出来ないはずがないと思っていたが、これは予想もしないつまづきだった。
人を黄泉路へ追いやった魂につく瑕はそれほど深いのだろうか。こんなに身体を清めてもまだ死のにおいが落ちないなんて。桜の香りでも誤魔化せないなら、どうしよう。
昨日、倭文織を呼び寄せて相談してみたが、彼女も眉尻を下げるばかりだった。ほかの方法を考えてみるとは言われたが、あてにして待っている時間はない。
祭壇を丁寧に掃き清め、榊を供え直すと、垂は井戸端へ向かった。祭事に用いるための水で身体をすすぐのだ。
まだ水浴びをするには早い季節。井戸水の冷たさはまろやかだが、それでも身体は冷える。けれどこうして水を浴び体温を削ぐことで、その時ばかりは雑念も消えてくれる。
肌を伝って流れ落ちた水が、井戸の周りに敷き詰められた白い玉砂利の合間に消えていくさまを存分に見送ったあと、垂は静かな気分で斎屋に戻った。
何か方法はあるはずだ。死の穢れに触れる機会はよくあるし、むしろ、そちらの世へ魂を渡すことさえ出来るのが巫女だ。
案外、地霊に避けられているからといって神器を操れないということはないのかも知れない。祭祀を前に、一度神器に触れられるか試してみようか。
垂はふと考えたが、髪から滴ったぬるい水が鎖骨にあたる感触で我に返った。
(だめよ、失敗は出来ない)
焦りに揺らぎかけた心を落ち着けようと、目を閉じて深く息をつく。
神器に拒まれればそれこそ終わりだ。垂に族長の資格なしと見なされるのはもちろん、水の巡りに干渉出来る者がいなくなるというのは、この布瀬の水辺にとって死活問題である。
焦る心をどうにか鎮めて、垂は薄く瞼を持ち上げた。
夫を斥け、布瀬の水辺の頂点に立つと決めたのは垂自身だ。
夫を欺いて死に追いやり、田津比古も、国久流も裏切ってその地位を手に入れるからには、もう彼らに心を許すことは出来なくなると分かった上で決めた。
でも、こういうことなのか、と今さら思う。
一つの過ちで足許をすくわれる。誰かを陥れて得た立場とはそういうものなのだ。
でも、一人で歩かねばならないのは、これまでと大して変わらない。むしろ誰かの手駒として生きているより、自分の意志で、危ない道さえも渡っていけるのならそれでいい。
斎屋の祭壇に掲げられていた鏡。垂がその中に映った自分の顔を睨んだ時、背後で板戸が開いた。
鏡に映ったのは、垂の食事を運んできた更と茜だった。
更も上下ともに白の衣、帯も白いものを締めている。そうしていると髪や瞳の色の淡さがいっそう際だち、霞のように消えていってしまうのではないかと思えてしまう。
けれど彼の存在をこの世に繋ぎ留めるかのように、胸元では琥珀と赤い勾玉の御統が光っていた。
手ずから作った御統を彼が身につけてくれているのを見たら、垂の頬は自然とゆるんだ。
しかし、茜と一緒に高坏を並べる当人の顔色は冴えない。思えば昨日あたりからずっとこんな顔の気がする。何か言いたげだわ。
「国久流さまから、垂媛さまにと。お届けものがありました」
話をきいてやろうかと垂が思ったところへ、木椀に白湯を注ぎ終えた茜が先に口を開いた。
「国久流から?」
頷き、彼女は絹紐で縛られた木箱を差し出す。
色鮮やかな絹紐は、金糸を織り込んだ細い帯を柔らかく編んだもの。舶来品であるのは見てわかる。掌に乗るくらいの箱は真新しく、豪奢な花の模様が彫り込んであった。
なんだろう。怪訝に思いながらなめらかな手触りの絹紐をどけて箱を開けると、途端によい香りが立ち上ってきた。
白い箱の中に収まっていたのは、黒茶けた木片一つ。
「……」
垂は驚きに目を瞠った。香木の欠片だ。あまりに高価ゆえこれを扱う商い舟自体が少なく、布瀬の水辺でさえなかなか手に入れることが出来ない代物だった。
そしていつだったか、布瀬の水辺に立ち寄った韓の商い人が、大陸では神を祀る場をこの香りで満たすのだと言うのを聞いた。香りと樹木そのものの持つ霊力が、巫女の力も高めてくれるとかで。
手許にあるのを見ているだけで、あたりにはよい匂いが漂う。火にくべて煙を立たせるともっと強く香る。
どうして、こんなもの。
垂はさっと木箱を閉じた。
閉じてから、分かった。田津比古が勘付いているということは、国久流も。垂が神と繋がるために障りがあるのではないかと考えているのだ。
それでこんなものを贈ってきた。
(ばかね。わたしが失敗すれば、お前はさっさと族長の夫の座に収まれるのよ)
垂が自分で夫を選ぶと言った日にはあんなに怒っていたくせに。
「祀りの日に使わせてもらうわ。茜、大神の御前にお供えしてきて」
「はい」
垂は不思議と胸が軽くなった心地で顔を上げる。そして思い出した。渋面の更のことを。
茜が斎屋を去っても、更は出て行かなかった。部屋の端へ退がることもしない。これはいよいよ、声をかけてくれということだろうか。
「どうしたの、更」
垂は努めて和やかに問いかけたが、松脂の色の目は不満そうに見つめてくるだけだ。
「どこか、具合でも悪いの?」
すると彼はようやく首を振った。小さく、横に。そして、
「お加減が悪いのは、垂媛さまなのでは」
堅くこわばった声で短く疑問を口にする。
「別に具合は悪くないわ。どうしてそんなことを?」
「……あたたかくない」
「あたたかくない?」
垂に問い返されると、更は己の言葉にさえ戸惑ったように顔を伏せた。
垂はそっと自分の手の甲をさすってみる。御祓の直後なので確かに肌は冷たかった。しかし、更が言わんとしているのはそういうことではあるまい。
なぜなら、斎屋で過ごしているここ数日、更に会うのは彼が食事を持ってきてくれるこの時間だけだからだ。これまで更の髪は垂が結っていたが、それもしてやらず、侍婢に任せてしまっている。だからぜんぜん更に触っていない。
「なぜと問われても言葉になりません。けれど、垂媛さまが斎屋にいらっしゃるのは分かっても、あたたかくない、そう思います」
「……そういえば、お前は色々と分かる者だったわね」
二人はよほど波長が合うようだ。垂は意図した時にだけ人の魂に触れるが、更には〝意図する〟ことがそもそも出来ず、一度触れ合ったことのある垂の魂の気配を常に探っているのだろう。
そして、垂が封じ込めている心の揺らぎさえも敏感に感じ取っている。
「それだけではありません。お食事も、あまり召し上がらない」
悄然としながらもどこか咎めるような声音だった。
確かに、更が運んできた高坏に乗っているのは、わずかな木の実の塩漬けと、湯がいて戻したつる豆がひと匙だけで、まともな食事とはいえないものだ。事情を知らない更が案じるのも無理はない。
「御祓に努める時はこういうものなのよ。具合が悪いわけではないわ」
「いつまで、このようなものしか召し上がらないおつもりですか」
「もう潔斎の必要がないと思えるまでよ」
「……それはいつ?」
「分からないわ」
矢継ぎ早で子供のような問いかけに、垂はつい笑ってしまう。するとまた更の表情が不安そうに曇る。
「笑って悪かったわ。心配してくれてありがとう。でも今は、水辺の族長としての勤めを果たすために身を清めなくてはいけないの」
「潟湖の主と、海の主をお祀りするためですか」
「そうよ」
「では、まだしばらく御祓を」
「ええ、もう少しの間は」
まだ、といえるほどの日数は残っていない。苦笑しつつ、垂は子供をあやすような声で言った。
もう少しの間。それまでに穢れをぬぐい去るか、誤魔化す方法を見つけなければそれでおしまいだ。
垂がつい表情を曇らせてしまうと、更は形のよい唇を噛んだ。
「……何か、お手伝いできることはないのですか」
そして思いもかけないことを言った。
「手伝う? お前は充分にこの館のことを手伝ってくれると聞いているわよ。それに、お前が食事を運んで来てくれるとわたくしも気持ちが安らぐわ」
斎屋に籠もる垂は、更が日頃どのように過ごしているのかを見ていなかったが、茜がその様子を報告してくれていた。
彼は垂の食事を運んでくるほかに、母屋にある垂不在の部屋を毎日掃き清めて、あとは遠目に斎屋の方を見ているという。
館から出ることを禁じているわけではないのだが、外へ関心を示す様子はないらしい。
もっとも、己の髪色がほかとは違うことを自覚したようなので、外を出歩き好奇の目で見られるのが嫌なだけかも知れないが。
「この館にいるのが退屈なら、国久流殿のところへ行ってもいいのよ。護衛をつけて散歩くらいさせてくれるでしょう」
斎屋を眺めているのに飽いてそんなことを言うわけではない、と分かっていたが、更の心が垂の身を案じるあまり不安でいっぱいなら、昼間は国久流に預けて気分を紛らわせてやるもよかろう、と垂は思うのだった。
しかし更はますます顔をしかめた。
「そうではありません。私には、垂媛さまと似た力があるとおっしゃっていました。私が余所者であることは承知の上ですが、もし、斎屋にお籠もりの垂媛さまに代わって出来ることがあるのでしたら、と」
今までになく強い語気で訴える更の言葉に、垂は思わず瞠目する。そして彼の言うことはますます思いがけないことだった。
「確かにお前には霊力があるようだわ。それもかなり強いのでしょう。無意識のうちにわたくしの魂の揺らぎを感じられるほど……。けれどそれだけでは努められない役目なのよ。地霊や魚霊が見えないようでは、」
「地霊……とは」
「この土地にあらゆる恵みをもたらしてくれる、彼らも神のようなものね。野山や湖畔に住まうのが地霊、川や海に住むのが魚霊。獣の姿で朝靄の中に隠れていたり、大きな魚の姿で浪間を跳ねていたりするのよ」
「……」
久しく触れていない彼らの優しい気配を思い出し、垂はふともの悲しくなった。
国久流や田津比古を欺くような道を選んだのは決意の上。けれど人のように様々な思惑を持たない彼らから距離を置かれるのは予想外だった。身体をすすげばすむと思っていた。
思いがけないところで代償を支払わねばならない。もしかしたらこれからも。
いや、このまま霊達にも触れられず神と魂を繋ぎ合わせることが出来なければ、すべてが終わるのだけれど。
更はいつの間にか眉間のしわを解き、ゆっくりと瞬きながら斎屋の窓の外を見ていた。
その先にあるのは白い砂を敷き詰めた狭い斎庭と、祭祀に用いるための榊の茂みくらいだ。族長の海辺の館は高垣で囲われているため、海も湖も川も見えない。
しかし更はどこか遠くを見ているようだった。
湖畔の館に連れ帰った日からも時々見てきた表情だったが、今日は遠くに見晴るかすようなものなど何もない。いったい何を見ているのだろう。
垂は不思議に思ったが、更がこちらに視線を戻すのをじっと待った。
「それは鹿のような姿をしていますか」
そして更がどこかに視線を向けたまま呟いた言葉に、垂は息を呑む。
「……そういうこともあるわ」
「湖のお館にいたときは、いつも見ていました。垂媛さまが祭殿にお籠もりになると決まって現れたのですが――水の上を歩いているので、私が幻を見ているのだろうと思っておりました」
「――本当に?」
「先日、川を下ってこちらへ来たときも。ほかは穏やかなのに、河口のあたりだけがやけに浪立って光っていたので、魚の群が迷い込んでいるのかと」
更の静かな瞬きに、垂のせわしない瞬きが重なる。
更が遠くを見つめるのには、そういうわけがあったのか。
納得すると同時にとくとくと鼓動が走り始めた。
「いつもそうなの? ここへ来たときから?」
「垂媛さまが祭殿から出ていらっしゃるのを待つ間は、ずっと幻を眺めていました。ここへ来る以前のことは――」
「そうだったわね、ええ……」
垂は昂揚する胸を抑えるようにうつむいた。
地霊や魚霊の姿が見えるということは、多少なりと彼らに関心を持たれているということである。
触れさせて貰えないとはいえ、垂が呼びかければ彼らが集まってくるのも、完全に拒まれたわけではないことの証拠。だから諦めずに彼らを呼び続けることが出来る。
死のにおいがついていない更なら、彼らをもっと近くへ呼び寄せることが出来るのではないだろうか。
「――更、試したいことがあるわ。身を清めて祭殿へ来てちょうだい。お前の力を借りることが出来たら……上手くいくかも知れない」




