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第二章(五)

 うなじを裂くような鋭い敵意を感じ、垂はぴたりと口を閉じた。

 やがて廻り廊の床板を大股で踏む足音が聞こえてくる。

 現れたのは田津比古だった。力強い生命と野心。国久流と同じ抜き身の大刀のように光る魂を持った津守の一族の長。

 彼は床いっぱいに玉類を広げていた垂と倭文織をじろりと睨み、しかしその直後には快活な笑みを浮かべて部屋の中へと入ってきた。

「事情は聞き申した。とんだ災難でしたな、垂媛さま。倭文織殿も。海比古(あまひこ)のやんちゃはこの頃特にひどく、せがれも手を焼いておるのです。しかしながらまだ子供、大目に見てやって頂きたい」

「おのこの遊びはいつでもやんちゃなものだわ。漁や商いに携わるようになれば、あの剛胆さも役に立つでしょう。それに、国久流殿が色々といいように計らってくれたことだし」

 垂は田津比古の敵意には目をつむって、目の前に並べた玉類の箱を示して微笑んだ。

 田津比古は垂が持っている繋ぎかけの琥珀の御統にも一瞥をくれ、鷹揚に構えながらも首を傾げる。

「ほう、琥珀の御統とは。新たな首飾りをお望みでしたか。それならば玉練へ収めるところのよい赤瑪瑙の勾玉がございまぞ。琥珀によく合う」

「いいえ、琥珀だけでいいのよ。更にやろうと思って……。あの者の髪や目の色には琥珀が似合うでしょう? でも、そうね、赤色もよいかもしれないわ。魔を退ける強い色だもの」

 垂は指を優雅に伸ばし、大粒の琥珀をつっと撫でた。素直に転がる丸玉を指先で弄んでから摘まみあげる。

「その勾玉も見せてくれるかしら」

「族長のお望みとあらば」

「嬉しいわ」

 田津比古が目配せすると、廻り廊に控えていた侍婢が音もなく立ち上がった。そして裳裾を引きずりながら床を滑るようにして姿を消した。示し合わせたように倭文織も黙って席を立つ。

 うららかな陽射しが作り出した濃い影の中に、垂と田津比古は取り残される形で向かい合った。

「あの若者も随分と快復したようで。己の出自などを思い出す兆しはありましょうか?」

「残念ながら、まだ時間がかかると思うわ」

「初穂を刈る頃まで」

「そうかも知れないわね」

 垂は答えながら琥珀を連ねていった。絹糸で結ばれるたびに硬くも柔らかい音が、かちん、かちんと響いては春風に消える。

「せがれの何が気にくわず、垂媛さまはあのようなことをおっしゃったのでしょうか」

 そんな静寂の中、田津比古の怒気がめらめらと燃え上がるのを感じた。

 やっぱりその話になるのね。

 田津比古と真っ向から対立することは避けようと思っていたけれど、彼の中にある一番の問題は垂の新たな夫が誰になるかということだった。だったらこの際、穏便にことを進めようとは思わず、あえて勝負を挑んでみようか。

 言いたいことは、こちらにもある。

 垂は平静を装い御統作りを続けながら、内心では心地よい緊張感にほくそ笑んだ。

「気にくわないとは一言も言っていないわ。むしろ国久流殿のことは認めていると言ったはず。商いや航海の腕は確かで、武術の心得も充分。子供の投げた泥玉を真っ正面からくらうような情けないところもあるけれど、何より皆から慕われているもの。国久流殿がわたくしの新しい夫の候補なら、湖畔の邑長達の心も動くでしょう。()()()()殿()()()()()()、祭祀を統べる族長の血に海辺の支配を及ぼすというのも、夢ではないかも知れないわ」

 田津比古が息を呑む気配を逃さず顔を上げれば、一度は父のように思ったことのあるその男は大きく目を瞠っていた。

「そのつもりでわたくしを田勢比古さまに差し出したのでしょう、田津比古殿。わたくしが田勢比古さまの子を産む前に田勢比古さまを族長の座から追い落とし、跡を継いだわたくしに国久流殿を宛がう。そうすればそなたは、産まれてくる次代の族長のじじさまとなれるはずだった」

 垂は狼狽える田津比古に冷然とした笑みを向けながら、この館で暮らした日々のことを思い出した。

 布瀬の水辺の北の端にある、湖畔にも海辺にも属さない辺境の小さな里。海を見下ろす山の中腹にあったことだけは覚えている。今でもそこに暮らす人があるか分からないほどの小さな集落。そこが垂の故郷だ。

 山津神の社に棄てられていた彼女は巫女に育てられ、やがて海神へ捧げる贄として田津比古の館へ連れてこられた。垂は神への捧げものとして丁重な扱いを受け、以後、四度の季節が巡る間、津守の跡継ぎである国久流と一緒に育った。

 そしてその間、どんなに海が荒れても垂は浪の中に沈められることはなかった。代わりに五度目の春を迎えたとき、捧げものとして贈られた先は海神の住まう海の底ではなく、布瀬の水辺の族長・田勢比古の館だった。

 田津比古が垂を海神に捧げなかったのは、きっと魚霊(なみ)地霊(ちみ)と意思を通わせることの出来る垂の巫覡(ふげき)の才を認めてくれたから。このまま祭祀を行う巫女として津守の館に置いて貰える。ずっと娘のように可愛がって貰える。国久流とも一緒にいられる。

 幼いながらにそう期待していた垂の淡い思いは、完全に破られた。あの時の彼女の失意を、この男は知りもしないだろう。

 それでもしばらくの間、垂は田津比古や国久流が迎えに来てくれるのを待っていた。

「何を驚いているの。ほかならぬそなたが言っていたのよ。わたくしを田勢比古さまの許へやる前の晩に」

 心当たりがあるからなのか、あるいはその晩のことを思い出したのか、田津比古の眉間に苦しげな皺が寄る。

 田勢比古の許へ嫁ぎたくない。そう懇願するため、父のように慕う男の部屋を訪ねたとき、田津比古は彼の妻と話していたのだ。

 垂をこの歳まで育てた目的を、彼が水辺の覇者たらんとしているその野望を。

 その時、垂には田津比古が唱えている言葉の意味が分からなかったが、すぐにこの館へ戻ることが出来ると思った。だったら今は我慢しよう。そうして田津比古には会わず自分に与えられていた傍屋へ戻り……それきりだ。

「けれどそなたは、田勢比古さまを裏切ることが出来なかったのね。それが忠心のためなのか、田勢比古さまの威光を恐れてのことなのかは知らないけれど。だからわたくしを差し出したあと、なんの手を打つことも出来なかった。そなたは田勢比古さまの前に水辺の支配を諦めたのだわ。でも、また機会が巡ってきた。それも、そなたが手を汚すまでもなく」

 半ばまで玉を通した糸を膝の上に横たえ、垂は上目遣いに田津比古を睨んだ。

 彼はすでに落ち着きを取り戻していた。泰然と胸を反らした様子は虚勢ではなさそうだ。

 揺さぶることが出来たかと思ったが、やはりそう上手くはいかないらしい。

「なんのことやら。垂媛さまの思い違いでしょう。我は心から田勢比古さまを兄として慕って参った。垂媛さまを妻にと推したのも、垂媛さまの巫女としての才を湖畔の祭祀にいかすべきと考えたからこそ。我が見込んだ通り、貴女さまは立派に田勢比古さまをお支えし、跡をも継がれた。これからも水辺の民を導いてくださることでしょう」

「……そう。思い当たることがないというのならそれでもいいわ。そなたが族長としてのわたくしに従ってくれるのなら、過去のことなどなんの問題にもならないもの」

 垂も負けじと胸を反らす。すると田津比古の唇が意地悪く歪んだ。

「神器を使い、水神と海神、両方と魂を交えて水辺を守ることの出来る者が族長です。垂媛さまにそれが叶うのならば、もちろん」

 まるで叶わないとでもいうような口ぶりで、彼は笑う。その時、垂はふと思い出した。

 そういえば、「父が田勢比古の死について疑惑を持っている」と国久流が言っていたっけ、と。

 結局それについて責めてこない田津比古に、垂は薄ら寒いものを感じた。黙っておく方が彼にとって有利なのだ。かつて義兄を裏切ることが出来なかった男だが、垂の立場の弱さはよく分かっている。

 布瀬の水辺の祭祀を統べるのが族長の役目。しかし神々は死穢を嫌う。霊達と同じように。

 田勢比古の死のにおいをまとったままの垂には、神器を使うことが出来ない。そして垂が祭祀に失敗したとしたら、族長であり続けるには強力な後ろ盾が、すなわち田津比古の支持を得ることが不可欠だ。

 垂に田勢比古を殺した疑いがあると騒ぎ立てるより、黙って垂が墜ちてくるのを待っている方がより彼女の力を削ぎ、自分につく瑕はせがれを振られたくらいで済ませることが出来る。

 そして、結局のところは垂に国久流を受け入れさせることが出来ると、田津比古は踏んでいる。

 それは垂にも分かっていることだった。その上で垂が田津比古に刃向かうのは、垂が打つべき手は一つでよいからだった。

「ええ、そなたの言う通り。神と繋がり布瀬の水辺を守ることの出来る者が族長。そなたの信用を得られるかどうかも、この春の祭祀にかかっているということね」

 神器を使い、神と繋がる。それさえ叶えば垂はすべての邑長から認められる。田津比古も例外ではない。

 たとえ死のにおいがまだ身体にまとわりついていても、そんなものは時間が経てば消えるに違いない。倭文織が言っていたように桜の木を焚いて香りで誤魔化す方法もある。

 だったらこの勝負は、垂の勝ちだ。

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