ある農夫のつぶやき
私はつまらぬ人間でありました。
朝に起き、田畑に出でて土を耕し、夕暮れとともにとこに落ちる。
食べて働き、疲れて眠る。繰り返す日々の中で培われるのは、田畑の作物が実をなすこと。それに野山の草木花々が四季の流れに身を任せて装いを変えていくこと。
私の知っているのはそれくらいのものです。学問もこれぽちも身に付かず、ただ土をいじることだけを生業としてきたせいでございましょう。
学というのは私には一つもございません。気の利いた小話も、人様が面白いと笑ってくれる話というのも、私にはありません。
ですから、私の元へやってくる人間様と言えば、ご近所の農婦人かもしくは郵便配達の若者くらいのもの。それもあまり私が口を聞かずとも平気な方ばかりでございます。
私としても話さずに済みますから、変に気を使うこともありません。しかし、だからでしょう。私の口というのはほとんど用のないものとなっていたのです。
ですから、私の一番の話し相手というのが、田畑の土であり、また野に咲く花々や草木などです。
彼らは特に何も言いはしません。口や耳など付いていないのですから、それもそのはずです。
ですが、言葉よりも声よりも彼らは雄弁に私に語りかけてくれます。
風にのって花びらを散らし、そろそろ春が終わり夏がやってくることを知らせてくれます。
緑葉を紅く色づかせて、夏の暑さが抜けて秋の訪れを教えてくれます。
風に揺られて葉を地面に落とし、秋がさり冬の寒さが肌をさしてきます。
雪が溶け、蕾が静かに開き始めると、凍える冬が通り過ぎ春が陽気をつれてきます。
私はその中でくわを持ち田畑を耕すのです。
貧しいと一言で片付けられてしまうくらいには、私には金というものがありません。
ですから田畑で作る野菜と米が私の命を繋いでおります。
生きるとはなかなか難儀なことです。自然の中で生きるというのはなかなか容易なことではありません。
たくさんの雨が降れば、作物は病気になってしまいます。また雨がめったにふらなければ、作物は枯れてしまいます。
時には食べるものに困り、飢えに苦しむ年もあります。飢えというのは痛みよりも苦しいもので、時間とともに引くどころか、より私を苦しめます。
土を耕す体力も、作物を植える気力も削がれ、もはや生きるしかばねとなってしまいます。ですから、死ぬことよりも飢えというものに、私はひどく怯えるのです。
私はつまらぬ人間でございます。顔も端正というには程遠く、無骨というには柔らかな、不男といってそういない顔をしております。
話もつまらぬもので、私の話など聞きくるものなど、これっぽちもおりません。
ですが、それでも私は生きる喜びを噛み締めております。
丈夫に育ててくれた母に感謝をしております。
下手な道に進まぬように導いてくれた父に感謝をしております。
また、これまでに出会ったわずかな友人たちにも、感謝と尊敬を抱いております。
今、私は一人きりではありますが、友人たちや父母が息災であることを静かにねがっております。
なんということはない、平凡な日常でございます。
都会の方々に比べてしまえば、まっことつまらぬ日常にございます。
物もなく、娯楽もなく。ただ苦労ばかりが目立つ暮らしにございます。
ですが、私はここだからこそ生きるのです。この暮らしだからこそ、私は息ができるのです。
死に場所をここと決めれば、寂しさも少しはまぎれましょう。
しかし、私がここから消えたとしても、ここは末長く残ります。
その中にこのつまらぬ私が、一つ名残を残せたのなら、これ以上ない幸福であります。