始まりのお話の始まり Ⅰ
膝元まで届く生い茂る草を掻き分けながら足場の悪い道のりを進んでいく。
既に頂点に達した太陽からは暖かい光が伸びているものの、周りにおよそ定間隔で立ち並ぶ木々は実に立派で日の光のほとんどを遮ってしまっている。
そのため昨夜の激しい雨の湿気が全く抜けきっておらずどうにもジメジメしている。
いや、やはり訂正しよう、ジメジメしているとは言ったがその表現はあまり正確ではない。
なぜならこの季節、今この時期は決して暑い時期ではなく、日中でもむしろ日の光は暖かく暑いという言葉とは全くもって異なっている。
つまり木漏れ日もほとんど差し込んでいないこの森林はよく言えば涼しく、悪く言えば少しばかり肌寒い。
湿気は高くとも暑くないのであればジメジメという不快的な表現は適当ではないのだ。
今この森の中にいるとまるでミスト空間にいるようで水蒸気が肌に纏わり付くような感覚はむしろ心地いいほどだ。
まぁしかしそのせいでかなり柔らかい土の上を草を掻き分けながらというのは少々歩きづらいのだが。
ついでに言えば足を動かすたびに草に付着した露が足に絡みつきあまりいいものではない。
この森林に入ってから十分ほど経過しているがお陰様で足は膝下はかなり濡れてしまっている。
この森林の雑草をどうにかできないだろうか。そう思うのは必ず雨上がりの場合のみだがこの季節は特に雨の日が多いので、その思いは一層強い。
この道を使い始めてもう十年になるがこればっかりはどうにも慣れない。というよりもとっくに慣れてはいるが不快感は拭えない。そんなところだ。
そろそろ弟も十歳を迎える。
その祝いと言っては何だがこの名誉ある水汲みという重要任務を任せてやるのも吝かではないな、と弟の嫌そうな顔を思い浮かべながらそう考える。
自分ももう少しで十八になる。両親にはあまりいい気がしないだろうが都に出働きしたいと思っている。
たくさんの、いろんな人が賑やかな道を往来する、そんな光景を見てみたい。堂々と胸を張って己の目的意識を高く掲げ大きく足を踏み出していく、そんな人になることに憧れた。
しかし果たしてそれを打ち明けたとき両親はなんと言うのだろうか・・・・・・。
やはり反対されるのだろうか。
それとも愛する娘の背中を押してくれるのだろうか。
そんなことを考えている内に気付けば目的地が見えてくる。
森林を十数分ほど進んだ道。
水と水が打ち付け合う音は歩みを進めるたびにどんどん大きくなりやがて水飛沫が飛んでくるようになる。
そう、滝である。それなりに大きな滝である。だがしかしそれほど大きな滝でもない。普通の滝の大きさがどれほどなのか、少女はこの滝以外に他を見たことがないのでなんとも判断に困るのだが。
とりあえず幅にして二十メートル、高さにして十五メートルはあるだろう。
水量はさることながら、この滝はそれなりに大きな川(プルヌ川)の枝分かれした支流の一つの終着点となっているーーーー池から再び川は続いているがーーーーのでそれなりに大きな池が形成されている。成人男性が歩いて池の端から端まで回ろうと思えば五分程度かかるだろうか。
少女は十年前からほぼ毎日この池まで家の生活のために一日一回大きなバケツを二つ持って水をくみに来ていたのだった。
そう、少女が退屈に退屈を重ねた日々を形作るための一つの日課である。
今日もいつもと変わらず少女は二杯のバケツにさっさと水を汲んだら元来た道を折り返す―――――――
その直前で、
少女は対岸で横になっている一人の少年を見た。
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ごろごろという音。鼓膜の奥に直接響いてくるような。
そんな音が永遠に絶えず聴こえてくる。
それがきっかけか、意識がぼんやりと醒める。そして・・・・
体中に感覚が無い。ふとそんなことに気付いた。
まずは手を伸ばそうと思った。でも、動かない。
次に足を曲げようとした。でも、動かない。
瞼を開こうとした。でも、開かない。いや、開けない。そして動けない。そもそも感覚が無い。
手足があるのか、それすら判らない。
ごろごろ、ごろごろ――――――――――――――
鼓膜にただ漫然と響くその音が。
あぁ、苦しい。苦しい苦しい苦しい苦しい―――――――――――――――――――――
口も開かない。苦しい。
あぁそうだ苦しい。ただひたすらに苦しい。でもからだが動かない。
寒い。寒いよ。寒くてとても冷たい――――――――――――――――――――――――――
苦しい。
ごろごろごろごろごろごろごろごろごろごろごろごろごろごろごろごろごろごろごろごろごろごろ。
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少女の手にシンと伝わる冷たさ。
その冷たさを己の温もりで覆い尽くすように、そのか細く小さな手を握っていた。
対岸で倒れている少年は酷く憔悴していて、そして酷く冷たかった。それはまるで人間の熱ではなかった。人間が達していい熱ではなかった。
バケツはそこに置いたまま自分よりもまだ小さい体を抱き上げると少女は駆け出した。
この子の命に関わると、すぐに判断したのだ。
そこからは必死だった。自分より小さな体とは言っても少年の体は十歳の男程度にはあって、気を失ったそれを非力な女が一人で負ぶって更に草木道を進むのは簡単なことじゃなかった。それでも走った。ただ走った。無我夢中に走った。
突然少年を負ぶって息を切らした私を見た両親―――畑仕事をしていた―――は一瞬逡巡した様子だったが少年の顔色を見るや否やすぐに行動に移した。その両親の臨機応変さをどれだけ見直したことか。
稀にパチッと薪が弾ける暖炉の音。
仄かな暖炉の明かりが部屋をその僅かな光量で、しかし優しく満たしている。そしてゆらゆらと揺らめく火に合わせて明かりもゆらゆらと揺れる。
少女は静かにその手を握り続けた。自分の温もりを少しでも多く分け与えるように。名も知らぬ少年を包むように。
コンコンと木の軽い音がそれまで静かだった部屋に流麗に響く。
一拍おいてから扉が開かれる音がして、そしてゆっくりとその扉も閉まる。
「おねぇちゃん、代え持ってきた」
「うん、ありがと」
手短に用を伝えた弟に穏やかに礼を告げる。
心配そうに見つめる姉を見て、弟は用を終えると何も言わずにそっと部屋を出た。
仰向けの少年の額に乗った折りたたんである布、それを弟の持ってきた水の入ったバケツに入れてからぎゅっと絞り再び同じ要領で畳むと少年の額にそっと被せた。
そこからは先程と同じである。少年の手を優しく握った。
名も知らぬ少年であれその手を離すことはなかった。その手には確かな愛があった。友愛や親愛は無くともそこには確かな慈愛があった。
少女はか細い手を握り続けた。優しく優しく、ただ少年が無事目覚めることを祈って。
月は大きく傾いていた。
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自分の手が温かくて、それが切っ掛けで目が覚めた。
暖かくて柔らかい。それが目覚めてすぐに無意識に思ったことだった。
それから瞼をゆっくり開けると視界が異様に狭かった。
まず視界の下半分は完全に何も見えない。それから右半分も。よって少年の視界は四分の三が何かに遮られている。残りの視界に移っているのは何か木目のようなものが見える。いや、木目で間違いない。となると自分が仰向けであると言うことからしてあれは天井だろうと、そう思った。
だが、なぜ天井があるのだろうか。自分は一体・・・ここはどこなのだろう。
「ぅ~~ん」
唐突に耳元でそんな寝惚け声が聞こえ、と同時に右半身で何か柔らかい感触がもぞもぞと動く気配があった。
少年は首だけを動かす形でそれを見た。
見知らぬ女性が目を閉じている。そして漸く気付いた。自分はこの女に腕を回されているのだと判った。
それにしてもこの女は一体誰なのか、少年は状況を確認する前に自然と女の無防備な首に手を伸ばそうとして――
「ん、ぅ~~ん」
少年の手が届くよりも先に女は目を覚ました。
「おはよー」
少年を抱きしめたままそう言った女はふわぁ~、と可愛らしく欠伸をしていた。