表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

夏の妖精

作者: 結城アポロ

じっと耳を澄ませると、虫の声が聞こえた。何の虫だろう、どこにいるんだろう、とつまらないことを考えていると、「まだ?」と彼女が聞いた。


「まだだよ。」

「そう。」


それからはまた虫の声だけが聞こえる。空は暗くてもよくわかる程曇っていて、重い層になった雲が一面を埋めていた。今なら天地が逆さになっても、落ちることなく空に着地できそうだ、とまたくだらない事を考えていると、彼女がもう一度、「まだ?」と確認をした。


「まだだよ。もっと暗くならないと、ダメなんだよ」何度も言っていることを彼女に辛抱強く伝えると、彼女は不服そうな顔をした。

「今って、どれぐらい暗いの?今、何時なの?」

「どれぐらいって、」僕は辺りを見渡して、なんと表現したものか考えた。彼女の閉じたままの目が、僕に向けられる。

「十段階で言うと、どれぐらい?」考えあぐねている僕に、彼女が助け舟を出した。

「まぁ、九ぐらい」

「じゃあ、もうすぐ?」彼女は期待で大きくなる声を抑えて、囁くように聞いた。「もうすぐで、妖精に会える?」

「うん。あと、五分ぐらい」僕はそう答えてから、「かも」と付け足した。


本当は、五分も待つ必要は無かった。僕がその気になれば、「妖精」はいつでも出現できる用意がしてあった。つまり、その五分という曖昧な待ち時間は単純に僕の心の準備のためだった。僕は左手にしっかり握ってあるビニール袋をさらにギュッと握った。


僕は今から彼女に「妖精」を見せる。このビニール袋に入ったひみつ道具で。


「楽しみだなぁ」彼女が浮ついた声を上げた。その後で、「だってもう、この河原に来るのも最後だもんね」と呟く。


そうだね、と僕も低い声で返した。


彼女は盲目だった。生まれた時から一縷の光も通さぬほど視覚の全ての機能を失っていて、それ故に、と結論付けるのも早とちりをしすぎているが、彼女は孤独だった。そういう風に考える度に僕は、この世で一番美しい孤独が、彼女の中にあるような気がして、彼女こそが世界で一番寂しい人だと根拠も無く思った。それは例えば彼女の整えられていない野暮ったい眉を見た時であったり、夕日が彼女の腕の細い産毛を金色に輝かせているのを見た時であったり、そういう時に僕は今まで喋っていた彼女がふいに途方もなく遠い世界の生き物のように感じた。


しかしそれはあくまで僕の想像の中の話であって、実際に彼女が孤独を感じているのか、僕が隣にいることによってそれが多少なりとも緩和されているのか、僕にはわからない。


それでも彼女がなかなか滅多なことで笑顔を見せることはないので、ある日、彼女が高揚した口調で「夢を見た」と言ってきた時、僕は思わず聞き返していた。


「夢って、寝てるときに見る夢?」当たり前のことを聞く僕に、彼女はじれったそうに何度も頷き、「妖精を見たんだけど」と捲し立てた。

「見た?でも、」僕は咄嗟に彼女の視力のことを指摘しそうになった。すぐにハッとして口を噤んだが、彼女は特に気分を害した様子もなく、「わかってるよ」と言った。

「目の見えない私が、夢で妖精を見たの。でもそれだけじゃなくてさ、」

僕がまた何か余計なことを言う前に、彼女は人差し指を立てた。こういう時、彼女は何も見えないはずであるのに、ちょうど僕の鼻先に手を持ってくることをごく自然にする。

そうして彼女が興奮気味に言ったことは、以下の通り。曰く、夢で妖精を見たそう。曰く、妖精たちと楽しい時間を過ごしたそう。曰く、妖精は「深夜に河原の前に行けば夢と同じことが起きる」と言ったそう。云々。


一緒に行かない?彼女がそう言いたいのがわかった。それでも彼女は口には出さずに、ただ僕の返事を待っていた。あなたが断ったら私は自力では行けないけど、あなたも忙しいと思うからワガママは言いません。そんな控えめな申し出であると僕は気づき、気づいたからにはその申し出を受け入れなければならないような気がしてならず、結局僕は「わかった」と小さく返事をした。それが昨日のこと。彼女は、やったぁ、と無邪気に喜び、じゃあ明日迎えに来てね、と笑い、僕は久しぶりに見た彼女の笑顔に励まされ苦しめられ、悩みながら家路についた。


やすやすと約束を交わしたはいいものの、どうせ翌日、河原に行ったところで妖精が現れることは無いとわかっていた昨日の僕は、どうしたものかなと考えて、あまり長く掛からずに、卑劣な作戦を思いついた。

それを、今日、まさに五分後に決行しようとしている。


僕が大事に握るビニール袋の中には、作戦を決行するための道具が数多く用意されていた。僕の卑劣な作戦というのは、できるだけさり気なく彼女の夢の詳細を聞き出し、それを「妖精」が指定したと言う深夜の河原にて、視覚を除いた五感で疑似体験してもらおう、とそういう心づもりだった。妖精の繊細な羽根の羽ばたく音は、一束に結んだ草が擦れる音。水の上を優雅に跳ねる音は、川に小石を投げ入れることで再現できる。彼女に触れたりするのは、羽毛か、花にするつもりだった。


彼女の欠陥を逆手にとって騙すようなことをする罪の重さについて、その時はあまり深く考えていなかった。僕は、彼女に僕がいかに彼女の夢を全て叶えることのできる男なのかを証明しようと躍起になっていたのかも知れない。それに気づいたのは僕がずっと大人になった後だった。この夜に彼女のたった一度の夢を叶えられれば、例え住む場所が離れ離れになっても、僕たちは永遠に繋がっていられるような気がしていた。


時計は持って行っていなかった。アラームが鳴って、「妖精が来た!」と僕が騒ぎ始めるのはあまりに滑稽な気がした。なのでタイミングは僕が自分で決めることになる。

静かに流れてる川が、雲が晴れて現れた月に照らされてキラキラ輝いた。彼女に気づかれないように小さく息を吐き、心を決めた。


作戦実行。


まず、ビニール袋から手早に小さな石ころを出して、水面に向かって投げた。ポチャン、ポチャンと小石が水に飛び込む音がする。彼女が夢で見たように、妖精が水の上を跳ねながら、やってくる音だ。

彼女の肩がビクリと跳ねた。

「もう来たの?」囁くような声で聞かれる。

「来たよ」

ガサガサと妖精が草木の間を飛び回りながら彼女の方へ向かう。実際はただ、僕の足が辺りの草を蹴って立てた音だった。それから、輪ゴムで一つに縛った草の束をビニール袋から引っ張り出して、控えめに振った。妖精が羽ばたいている。

「聴こえた!今、そこにいるでしょ?ねぇ」

まだ少し怖いのか、隣に座った彼女が僕の服の袖を掴んで引っ張った。彼女の身体をこちらに引き寄せたくなった。代わりに、うん、と頷いた。

「本当に妖精、いたんだ」

うっとりしたように呟く彼女の声を聞いて、僕は喜びに胸が高鳴った。彼女を喜ばせることができた、とそればかりが嬉しかった。


水面から上がって来た妖精にリアリティを出すために、袋から出したミモザの花を水に浸した。これで彼女には、今しがた水を浴びて来た妖精が、雫を滴らせながら彼女に触れているように感じるだろう。

剥き出しになった彼女の白い膝に花を軽く触れさせると、彼女が息を呑んだ。膝にいる?と小声で僕に確認する。まるで、妖精の安寧を邪魔しないように気を使っているようだった。実際そうなのだろう。彼女の膝に垂れた雫を、僕は花びらで拭った。


「いるよ。今、ちょうど…寝転んでる」

僕は軽々と嘘を口にする。彼女が優しく微笑んだ。桜のように色づいた綺麗な唇が引き伸ばされて、彼女は本当に可愛かった。

ミモザの花を指で摘んで、彼女の膝の上を走らせた。あっちへ行ったりこっちへ行ったり、気まぐれな妖精を装った手つきに、彼女はすっかり騙されて、くすぐったそうに笑った。


それから僕は調子づいたまま、「妖精」を操った。小石を水面に投げては、妖精が水遊びをしていると彼女に説明し、いたずらに彼女の髪を指に巻きつけては、妖精が今、三つ編みを作ろうと四苦八苦している、と芝居掛かった声で伝えた。ミモザを乱暴にちぎって彼女の手の上へ撒いた。妖精の粉だ、と僕は言った。

そのどれもに、彼女はいちいち嬉しそうに反応した。今、私の目の前を通ったでしょう。わかる、だって今、まつ毛に何かが触れる感じがした…


「妖精」に触れられれば触れられるほど嬉しそうにする彼女と対象に、僕の心はだんだん重くなっていった。言い知れない罪悪感が、じわじわと心に広がっていっていた。


もう終わりにしよう、と思った矢先に、彼女が口を開いた。「夢の中で、妖精はキスをしてくれたんだけどなぁ」彼女が呟いた。高揚した口ぶりだった。胸の辺りが、急に苦しくなる。


「降りてきてるよ」僕は静かに答えた。なんとなく言い方が嘘くさくなったような気がして、咳払いを付け足した。余計に自分の罪が重くなった気がした。僅かな音でも拾う彼女に決して聞こえないように、静かに花を手繰り寄せて、彼女の口元へと掲げた。唇へ押し付けようとした花が震えた。結局、彼女の鼻の頭に、静かに花びらを擦らせただけにした。

「良い匂いがする」彼女がはしゃいだ声をあげる。長いまつげがピクリと震えた。「どこかで嗅いだこと、あるかも」

「今、妖精が君の肩にいるよ。」

僕はそう言って、彼女の肩にミモザの花を乗せた。彼女は妖精を振り落とさないようにと体を硬直させた。後はこの花を彼女の唇に触れさせれば、それで甘美な「妖精のキス」の完成だ。彼女の見た夢の、言わばクライマックスにあたる展開。それを彼女は、健気に、純粋に、待っている。


そんな彼女を見て、僕は急に悲しくなった。急に彼女が弱弱しいかわいそうな生き物のように思えてきた。

目の見えない彼女には、何が見えているのだろう。そこには僕が想像も出来ないような色をした、僕が想像も出来ないような形の妖精たちが、優しい綺麗な空を悠々と泳いでいる。破れそうなほど薄い羽根を生やした妖精が、彼女の頬を撫でていき、彼女の瞼にキスを落とし、黒々とした彼女の綺麗な髪にそっと潜り込んで、遊んでいる。


彼女が、キスをせがんでいるのがわかった。分厚くて色っぽい唇を突き出して、彼女は妖精のキスを待っていた。少し開いた口の中に、揃った前歯が覗いている。

僕はミモザの花を右手に持った。それを彼女の唇に触れさせて、それで「妖精のキス」を成立させるつもりだった。

だけど気づいた時には僕の右手はミモザの花を地面に落としていて、代わりに彼女の細い肩を掴んでいた。僕は彼女にキスをした。


この夏が終わると、僕はこの綺麗な河原がある町から引っ越す予定だった。父親の仕事の都合という、僕にはどうしようもないことだった。彼女は彼女で、もはや治るはずもない先天的な目の病を、直せると信じてやまない叔母さんに連れられ外国で治療を受けるらしい。つまり、平たく言えば今晩が彼女と過ごせる実質的には最後の一日だった。これ以降に僕たちが会えるのかはわからない。ひょっとしたら永遠にもう会えないのかも知れないと思うと、最後の会合がこんな風に欺瞞で作られたものでいいのだろうかと思わずにいられなかった。



彼女の世界では、妖精が音もなく羽根をこすり合わせていて、彼女にひたすら優しいだけの幻想が繰り広げられている。それが現実では、ただ彼女とそう年齢も変わらない地味な少年が、小細工で必死になって持ちこたえているだけだ。

僕は急に、彼女をこうして欺いていることが、ひどく罪深いことでならないような気がしてきた。だけどもう、遅かった。僕は彼女の唇に自分の唇を押し付けていて、彼女の乾いた唇から小さく息が漏れた。

すぐに唇を離した。その瞬間、彼女の周りを飛ぶ妖精たちが音もなく去ったような気がした。


「もう帰ろう」


え、もう?彼女は不服そうに言った。そして妖精を促すようにそっとあたりに手を差し出した。そこには何も無い。帰ろう、と僕はもう一度言った。妖精ももう帰ったから。


急にあたりが静かになったように感じられた。川の音もしない、木々が揺れる音もしない。自然が、僕たちを囲う全てが、僕を軽蔑して、黙っているような気がした。

足元には、ちぎれたミモザの花と、雑草と、ビニール袋が石で押さえられて置いてあった。

僕はひどいことをしていたんじゃないか、と突然湧いてきた後悔を抑え、僕は立ち上がった。行こう、ともう一度彼女を促す。彼女は僕の震えた声に驚いたのか、慌てて立ち上がった。その手を取るのを少し躊躇して、彼女はよろめいた。


そして僕たちは帰路についた。僕の生返事も気にせずに、彼女は延々と妖精との戯れについての感想を語って聞かせた。最初は素晴らしいひみつ道具だったあのビニール袋の中身が、急に彼女を傷つける凶器のように感じられて、僕はビニール袋を河原に置いていっていた。明日取りに行こう、と意味もなく考えた。


ふと後ろを振り返った。小説や映画なら、ここで主人公の目の前を一匹の美しい妖精が過って、主人公が息を飲んだところでエンドロールが流れるのが定石じゃないのか?

僕は流れる小川を、よく目を凝らして見つめた。


「ありがとう。すごく楽しかった」


彼女が僕の手を引っ張った。彼女の言葉が無邪気に僕に刺さって、僕は自分がいなくなった後の彼女を想像してしまって、さらに強く目を細めて黒い濁流のような川を見つめた。ここで妖精が現れたら、僕の罪悪も軽くなるような気がしていた。


だけど僕の目に映るのは黒く無愛想な夜ばかりで、彼女が夢見た妖精の姿はどこにも無かった。


ハッピーバースデー!

猛烈に遅れてすみませんしかもなんか誕生日なのに暗い話になってる許してくださいなんでもしますから


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ