悪魔の契約書(短編3)
深夜の展望台。
その先端から谷底に向かって、今まさに飛び込まんとしている男がいた。
「待ちなさい」
男の背後で声がした。
男が驚いて振り向くと、そこには耳が異様に長い、全身黒づくめの者が立っていた。
「あなたは?」
「見てのとおり悪魔だよ。取り引きがしたくて、オヌシに声をかけたんだ」
「取り引きって、まさか私の命を?」
「そうだよ。その捨てようとしている命を、金と交換してやろうという契約だ。しかもこの約款には、三十日の金の使用期間がついておる」
「で、契約額はいかほどで?」
「オヌシの場合、最低保障額の一千万円だ」
「一千万円はうれしいのですが、どうして私は最低額なのでしょうか?」
「ワシが声をかけなきゃ、オヌシは身投げをしておったのだ。生きる気力のない命は、契約書の中でそのように決まっておるのでな」
「なら、しかたないですね。私としても、タダ死にするよりはましなので」
「では決まったな」
「ですが、お金をいただいても……」
男が迷いをみせる。
「どうした?」
「もしかしたら私、明日にも警察に捕まるかもしれないものですから」
「警察だと?」
「あれを見てください」
男は薄暗い谷の斜面を指さした。
展望台から二十メートルほど下方、そこには別の男が一人、大きな岩に引っかかるようにして横たわっていた。
「ではあの男、オヌシがやったのか?」
「ここから突き落としたんです」
「なんで、そのようなことを?」
「実は……」
男はこれまでに至るいきさつを話した。
自分は小さな鉄工所を経営している。で、突き落とした者は取引先の建設会社の社長であり、彼には一千万円ほど、商売上の取り引きの金を貸している。
貸した金の返済は三年も先延ばしにされている。自分にも同じほどの借金があり、このままでは鉄工所が立ちゆかなくなってしまう。
今夜は彼の方から呼び出された。
返済の話かと思いきや、ただ泣いて謝られるばかりである。それでついカッとなって、アイツの胸を突き飛ばしてしまった。
「そしたらアイツ、そこから落ちてしまって。決して殺すつもりはなかったんです」
けれども……。
偶発のことだったとはいえ、人を突き落として殺してしまった。
「思い悩んだ末、自分もここで死のうとしていたんです。ただ……」
契約して一千万円を入手したとしても、殺人者となってしまえば借金の返済はできないし、会社を立ち直らせることもできない。それどころか家族や従業員らに迷惑をかけてしまう。
「それで契約をどうしようかと……」
「なら心配いらんぞ。ヤツは生きておるんで、オヌシは殺人者にはならん。それに、ヤツがオヌシを呼び出したのは、はなから死んで詫びるつもりだったんだ」
「なぜ、そんなことがおわかりに?」
「いずれ、オヌシにもわかるときがくる。なのでオヌシは、自由に金を使えることになる」
「そういうことであれば、ぜひ」
「契約成立だな」
悪魔はうなずいてから、ポケットから契約書とペンを取り出した。
男が契約書にサインをする。
「金はオヌシの口座に振り込んでおく。では、ここで三十日後に」
悪魔は契約書の控えを男に渡すと、必ず来るんだぞと言い伝え、その黒い姿を闇にとけこませた。
三十日後の深夜。
男は再び展望台で悪魔と会った。
「借金は、いただいた一千万円で返済できました。それで会社も、なんとか持ち直しそうです」
「そいつはよかったな」
「ですが、あの者は死んでしまいました。やはり私のせいで」
「いや、あのときは気を失っておっただけだ。あとでワシが正気にもどしてやったよ」
「なら、怪我がもとで」
「それもちがう」
「なぜ、そのことがおわかりに?」
「あの日、ワシはオヌシと会う直前、すでにヤツのもとに行っておったんだよ。契約をしようとな」
「では、あなたが?」
「そうではないのだ。そのときヤツは意識がなく、話すこともできなかったからな」
「どういうことなんです?」
「正気になったあと、ヤツは自ら命を絶ったのだ。谷底に飛びこんでな」
「私も変だと思ったんです。谷底で死んでいたと聞きましたので」
「ヤツは自殺を選んだのさ。ワシとの契約より、生命保険の死亡一時金の方を選んでな」
「死亡一時金って?」
「あの男も死にたがっておった。だからワシと契約しても最低補償額だ。それに比べると、生命保険の受け取りは一億円だったのさ」
「ですが死ぬんであれば、たとえ一億円あっても意味がないのでは?」
「いや、それがあるから自殺したんだ」
「どういうことです?」
「ヤツにはほかにも借金があってな、みなを合わせると一億円近くあったらしい。なので保険会社とは、借金全部を清算できるよう契約しておったんだ」
「では保険金、遺族が受け取ったんですね」
「だろうな」
「で、私にも遺族から」
「貸していた一千万円がもどったのか?」
「すっかりあきらめていたんですが」
「よかったじゃないか」
「ですが、こんなふうになるんであれば、あなた様と契約をしなくても……」
「今となってはたしかにそうなんだがな。だがあのときのオヌシ、ここから身を投げようとしておったではないか。ワシと契約をせんでも、オヌシは死んでおったのだぞ」
「ですがやはり……。あの契約、なかったことにできませんか? いただいた一千万円、もどった分でお返しいたしますので」
「今さら解約と言われてもなあ」
「では、私の命は今夜限りで?」
「こまったヤツだな」
悪魔が腕組みをして言葉を継ぐ。
「オヌシ、契約書の控えを読んでおらんな」
「はい、ここに持っておりますが」
男はポケットから、小さくたたまれた契約書を取り出した。
「なら、約款の最後を読んでみろ」
悪魔に言われ、男はあわてて契約書に目を通した。
「クーリングオフの条項があるんですね。しかも、期間が三十日も……」
「一時の気の迷いから、尊い命を捨てようとする者があとを絶たんのでな」
「では、私もクーリングオフを」
「オヌシは運がいいぞ。解約受付の終了まで、あと十分ほどだったんだからな」
「すみません。あなた様にとっては、せっかくの契約でしたのに」
「気にせんでいい。クーリングオフも契約条項のひとつだ。それにな、オヌシの命はオヌシだけのもんじゃない。これからの人生、そこのところをよくわきまえることだな」
「ありがとうございます。このご恩を忘れず、これからはずっと大切にいたします」
男は深々と頭を下げた。
「こんな因果な仕事を長く続けていると、たまには人助けというものをしたくなるものさ。で、そいつは早いとこ処分しないとな」
悪魔はそう言って、男の手から契約書の控えをかすめ取った。
自分の契約書を取り出す。
それから二枚を重ね合わせると、契約書は悪魔の手の平で、たちまち炎につつまれた。
そして……。
契約書が燃えつきたとき、いつしか悪魔の姿も男の前から消えていたのだった。