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#29

「おのれ謀ったな小娘ぇー!」

 爆炎と共に、フランシスカの絶叫が響き渡る。

「謀るもなにも……おさむに絶対安静って言われてるの、忘れたの?」

 アレクシアがとてもいい笑顔で返した。

「あ、いや、ワシの体は万全で……!」

「どーなの、おさむ?」

「まだ一日しか経ってないから、なんとも」

「そんなっ!?」

 フランシスカは狼狽する。

 竜の血は単純で、そして実に複雑だ。なまじ高い知能を持っているせいで、うまく闘争本能を発散させることが出来ない。それは半分だけ竜の血を引いているフランシスカにも当てはまる。

 あの水を差された決闘で昂ぶった闘争本能を燻らせながら、それを真っ白に燃え上がらせることのできる瞬間が来るのを待っていたのだ。

 あの宣戦布告から長い長い一夜を越えて、彼女はここに立っている。

 暴れられると。

 そのチャンスが、今、目の前で取り上げられてしまった。

 暴れる理由がなければ暴れることが出来ない。

 酒が飲めれば、酔ったからと暴れることができた。

 それを修に止められてしまった。

「この体の火照りは! いったいどこで発散すればいいんじゃ!?」

 暴れたいという意識が体の中でむらむらと燃え上がるそれを無意識に押さえ込んでしまいながら、フランシスカは絶叫している。

「知恵比べで発散いたしましょう」

 ヘンリエッタの口が細い三日月状に歪む。

 少なくともフランシスカにはそう見えた。

「ひどいっ! それでも騎士か!」

「私、"従騎士"ですので」

「人間が竜に正々堂々と真正面から挑むと思う?」

 純血の竜の魔力量はフランシスカとさして変わらないが、しかし文字通り体格が違う。サイズが倍以上も違うの化け物相手に真正面から少数で挑めるほどの英雄なんて存在しないのだ――もちろんカタリナを除く。

「と、いうか、だ……うちの庭で竜戦争のきっかけでも起こすつもりか貴様らぁ!」

 またもや立会人となってしまったディビットが正論を吐いた。

「一人の男を巡って状況が二転三転とかどこの歌劇かっ! いや見てる分には面白いがな! ちょっと台本を見せてもらおう!」

「……台本、なんて、ない、わよ?」

 カタリナが呆れたように呟く。

「なに、言ってみただけだ! まぁそれはそれとして、俺も仕事があるのでな! できればさっくりと終わらせていただきたい!」

 ならば最初から立会人など引き受けるなと言ったところだが、しかし引き受けることでカタリナや、他領の貴族、なにより修に顔と名前を売ることができる。面倒見がよいと、まだまだ子供である茉莉から尊敬を受けることだって可能だ。

 ディビットもまた、打算でもってここに立つ人間のひとりなのだ。

「というわけで俺は今、名案を思いついた! たったの一問でこの問題を解決する、すばらしい名案がな!」

 実際はもっと前から考えていたものだろう、彼は仰々しい手振りを加えて宣言した。

「知恵比べというならば、サムライが問題を出すがよかろう!」

「えっ?」

 半ば傍観するような気分でいた修が、急に振られた言葉にあっけに取られた。

「なぁに問題はない! 昨日だってサムライは賭けられた立場だというのにヘンリエッタ嬢と相対した。ならば問題を出すことに問題はなく、そしてこの方法には大きなメリットがある!」

 それこそが自分の名案の根幹だと言うように両手を大きく広げる。

「この中で寄り添いたい女に有利な問題を出せばよいのだよ!」

 ――爆弾発言であった。

「……レクシー、いえ、アレクシア。いまから私、貴女との休戦を一時、解消したく思います」

「ちょっとぉ!?」

 まずアレクシア連合からヘンリエッタが離反。

「……私、も、参加す、る」

「カタリナぁ!?」

 続き、昨晩の出来事で助手として修を欲するカタリナが参戦。

「あ、私二番さんでいいんで、傍観してますねー?」

「マリー!?」

 そして茉莉が漁夫の利をいただいちゃいます宣言をする始末である。

「では俺が代わりに――」

「赤毛は座ってろ!」

「なんとぉー!?」

 まぁアレックスは半ばノリだったので当然である。

「……うむっ!」

 ディビットがちらっと「どうしよう……?」と困った表情を浮かべ、しかしなにごともなかったかのように大きくうなづいた。

「これがマリーの言う"人生における三回のモテ期"というやつだな!」

「いっぺんに来るモンじゃないでしょうよ」

 修はディビットを恨めしく睨んだ。



 それぞれの口上があがり、さぁ問題を出せ、という段階で修はしばらく考え込むふりをする。

(さて、これは……)

 困ったことになったぞ、と。

(……ヘティさんが休戦協定ブッチするとは思わなかったなぁ)

 少なくとも昨晩の段階で、フランシスカは絶対安静だと言ってあるということを二人は知っている。だから知能戦になるだろうと、アレクシアは頭脳担当のヘンリエッタと休戦を結ぶだろうということは簡単に予想がついた。

 そして事実、ついさっきまで休戦協定が結ばれていたというのに――

(まぁ、二手に分かれたほうがよっぽど取り戻す確率は高いしね)

 とはいえ、結ばなかった場合も想定はしている。

 二人で一度だけ挑むよりも、一人ずつ二度挑んだほうが確率が高いのは当たり前のことである。だからヘンリエッタはわざとこの場で休戦協定を反故にしたのだ……と、修は信じていた。

(できればアレクシアに正解してもらいたいところだけど……)

 人情的にアレクシアを本命としたいところだが、しかしこの四人の中でもっともアレクシアは頭が悪いだろう。

 ヘンリエッタは修が認めるほど、この世界では例外的なくらいに数多くの数学知識を持っている。

 カタリナはヘンリエッタよりも劣るが、それ以外――素の頭の回転の速さはおそらく群を抜いている。

 フランシスカはいまいち読めない。だが、少なくとも"次元の魔女"などと呼ばれているのだ、悪いはずがないだろう。

 アレクシアはおそらく貴族として平均的な能力なのだろうが、いかんせん武力に特化しすぎていて頭脳戦に向いていない。だからさっきまでヘンリエッタと休戦協定を結んでいたのである。

(……俺が知ってて、ヘティさんが分からなくて、カタリナさんに気付かれない、アレクシアだけが知ってる数学知識……)

 数学知識に限定したのは、フランシスカが前日の私闘(フェーデ)で興味なさそうにアレックスたちと談笑にふけっていたからである。少なくとも数学知識ならば、多少は協力的だったとはいえ、どう転ぶか分からないフランシスカが答える可能性は低いだろう。

「……よし」

「決まったかね?」

「はい。約束どおり、一問だけ」

 長い長い熟考を経たような沈黙が、四人の間に流れた。

「二、三、五、七、十一、十三……ある規則で並ぶこの数列の共通点を述べよ」

 素数。

 それは修の口からは、今のところアレクシアにしか教えていない数学知識だ。

「ああ、それなら――」

「なお、この数列は無限に続き……規則性はない」

「……えっ」

 ヘンリエッタが思わず声を上げる。

 素数を齧ったことのある、数学を嗜んでいる人間に多いことだが――素数は必ず一つの公式で表すことができる、という幻想がある。

 いや、幻想と言うよりは夢か。

(だからこそ、罠になる)

 修だって素数を無限に生み出す公式を作ろうと模索した時期がある。だが何百年と試行錯誤を繰り返してきた数学史の中で、未だにその数式は発見されていない。

 具体的に素数を発見できる数式として発表された数多くの数式は、そのつど、さらに大きな素数の発見によって叩き潰されてきたのだ。

 故に、素数を具体的に出す公式は存在しない。

 公式化できないのだから、規則性はない。

 そういう理屈で、修は規則性がないと定義したのだ。

「すみません。私の早合点だったようですわ……」

 おそらくヘンリエッタは、この数列が素数であることに気付いて――しかし答えようとした矢先に、修の一言で違うものだと勘違いしただろう。

(ヘティさんごめんなさい)

 心の中で謝罪する。

「……ヘンリエッ、タ、が、無理なら、お手、あげ」

 それを聞いて、カタリナは早々にギブアップを宣言した。

「この、問題は、ヘンリエッ、タ、が、専門の、ハズだし」

 だから門外漢の自分は解くことが出来ない、と。

「……ちっ、ワシも無理じゃ」

 釣られてフランシスカも断念した。

「そもそもワシ、数とかあんまし使わんし」

 せいぜいで足し算さえできれば日常を過ごすのになんら問題はない。

 いったい何に使うか分からない、という疑問によって数学は軽視されてきたが、まさか魔女の名前を冠した人物すら匙を投げるとは思いもよらず、修は苦笑いを浮かべた。

「……おさむ?」

 そして本命のアレクシアは、笑っていた。

「ボクでいいの?」

「答えを言うまでは俺、そういうのを口にしちゃいけない立場だから」

「そっかー」

 嬉しそうにはにかんで、

「一と、自分と同じ数字じゃないと割り切れない数……だよね?」

 アレクシアは答えを口にした。



「アレクシア」

 私闘(フェーデ)の決着を告げる宣誓が行われた直後、修は落ち込むヘンリエッタにドヤ顔をする彼女に声をかけた。

「ん、なぁに?」

 知恵比べでヘンリエッタの勝ったのがよほど嬉しかったのだろう。アレクシアは気分よく修に返事を返す。

「あんまりヘティさんを苛めないほうがいいよ?」

「いいじゃん、たまにはさ」

 そのたまにはが毎日あるのがイジメっこの理論である。

「それはそれとして、たぶん俺が考えてる通りなら……」

 と、修は頭で思い浮かべた数式の解を計算尺で導いて、

「ヘティさん」

「……なんですの? 意地悪な修様」

「千と二百、九十、六の……えー、五で割った数の、余りは?」

 不機嫌な声を出すヘンリエッタに、一つの問題を出す。

「………………一、ですわ」

「じゃぁ、二の六乗……あー、二かける二かける、って、二を六回かけた数は?」

「……六十四」

「その解を十一で割った数、の、余り」

「…………五、あまり、九」

 その全ての問いに対して、少し考え込んだだけで答えを出すヘンリエッタに、修はぎょっとするような、しかし半ば予想できていたような、複雑な顔をした。

「予想通り、ヤバい」

 アレクシアはきょとんとした顔をする。

「そりゃ、ヘティ、家計簿とかそういうの得意だし……ねぇ?」

 水を向けられて、カタリナがこくんとうなづいた。

「研究、の、予算関係、で……お世話に、なったくらい」

「ほー、それは便利だな」

「便利なだけじゃ」

 だがその能力でヘンリエッタを欲したりはしない。

 多少数字に強くとも……というのがこの世界の人間の、ごく普通の認識なのだ。

「アレクシア」

「うん」

「ヘティさんだけは絶対にほかにやっちゃダメだ。確保」

「……えー?」

 アレクシアとしてもその進言は願ったり叶ったりだ。

 だが彼女は、主人である自分に対して牙を剥いた。それだけが引っかかってしまう。アレクシアは複雑な顔をして問い返した。

「理由は?」

 ここで許すのは簡単だが、その身柄を確保するのにはいささか理由が必要なのだ。

「数字に対して、頭の回転、早すぎる。たぶん、ヘティさん、ちゃんと教えたら……数論、理解できる」

 それがどれほど恐ろしいかを知るのは、修だけだ。

「そもそも、すうろん、ってなに?」

「昔は数学史上、もっとも浮世離れした学問って言われてたジャンル」

 例えば素数に代表される、学生がよく口にする「将来何に使うのか分からない」という部分のことである。

「ヘティさん」

「なんですの?」

「興味があるなら教えますけど……覚えてみる気、あります?」

「……ええ。どうせヒマになるでしょうから」

 ヘンリエッタは虚弱体質だ。カタリナのところで引き取ってもらえるとして、しかしそれはしばらくの間だけ。結局は実家に戻らざるをえない。

 彼女にはその後の生活がありありと想像できたのだ。

 部屋に閉じ込められ、外と隔絶した世界で生活しなければならない、鬱屈したあの日々に戻るのだろう、と。

「数遊びは、時間を忘れるのにちょうどよいオモチャ(・・・・)ですので」

「そうですか」

 その言葉に、修は思わずピエール・ド・フェルマーのことを思い出していた。

 数学者として知られる彼は、実際のところは数学者でもなんでもない。ただの弁護士で、数学はその余暇に行っていた趣味(・・)である。

 数学を余暇の楽しみとしていた彼が生み出した功績は数知れない。たとえばパスカルと共同で確率論の基礎を作り、デカルトには解析幾何学を草案。微積分力学にも手を染め、そして現代でもっとも有名な「フェルマーの最終定理」を残して亡くなった人物だ。

(ほうっておいたら、この世界のフェルマーになるぞ……!)

 修がそう感じてしまうほどに、ヘンリエッタには数学の才能を感じていた。

 ――そして同時に、異端者として追われる身になってしまう可能性も。

「確保するのがダメなら俺、この人ちょっと日本に持ち帰りたい」

「ちょ――!?」

 アレクシアが絶句した。

 当たり前だ。自分を選んでくれたと思ったら、すぐさま他の女を攫っていくという宣言である。これほど屈辱的なことはそうあるまい。

「おさむっ!」

「ほうっておいたら、絶対に損をする」

 フェルマーは十七世紀の弁護士だ。

 およそ二世紀も先の学問を先取りできる、その利益とはいったい、どれほどのものか。

「それでもっ、ボクの権威と、プライドに関わる! てーか、理由がないならボクは譲れないっ!」

「……」

 話すべきか、と修は少し考え込む。

「……アレクシア、ちょっと、耳、かして」

 そして決心がついたように、修は、彼女を手招きした。

「できれば、誰にも邪魔の入らないところがいいんだけど……」

「なに?」

「知ったら、ヘティさんが危ないから」

「……わかった」

 ヘンリエッタが嫌いなわけではないアレクシアは、彼女のことを考えておとなしく修に耳を近づける。

「……数論を利用すると」

「うん」

「解読するための(ヒント)がバレても、解読できない暗号が作れる」

「――かくほぉおおお!」

 聴いた瞬間、アレクシアはバネ人形のように飛び出して、

「え、ちょ――きゃぁああああああ!?」

 慌てたようにヘンリエッタを押さえにかかった。



    ○



 数論――それはこの世でもっとも役に立たない数学と言われていた(・・)ジャンルである。修としては九割がたがこの数論のせいで数多の学生に「数学なんか将来何の役に立つんだ!」と言わせたものだろうと思っている。

 修を受け持った数学教師はこれに対して熱意を持って調べ答えてくれた、修を数学の世界に引きずり込んだ恩師(げんきょう)と言ってもいい。

「そういう、うちの教育現場の話はおいといて……」

 修はその話題をわきにどけるジェスチャーをする。

「……アレクシア、盗聴の危険性とかは?」

「ない。必死こいて調べた」

 ぐったりとソファーに体を預けるアレクシアが答えた。

 秘密の話をするからとディビットに頼んで借りた小さな談話室――というにはいささかセレブ思考がすぎる程度の広さを持った部屋を、アレクシアはそれこそアリの一匹も見逃さないとばかりに調べたのである。

「……カタリナさん」

「保証、する」

 カタリナはすこしも疲れた様子を見せず、親指を立てて答えた。

「……なんでカタリナがいるのさ?」

 アレクシアが修のことを睨む。

「魔法なら、やっぱり本業に見てもらったほうが安全だろう?」

「そりゃ、そーだけど」

「ディビット様って、なんとなくバカのふりして裏で色々やってるイメージがあるし」

 街道があんなに荒れているくせに建築資材(コンクリート)の輸出産業で領地をそこそこ発展させているのだ。何かあると見て間違いないだろう。

 もちろん空輸の可能性も考えられるが、巨大な質量が頭の上を通るのは精神衛生上非常に良くないし、なにより空に浮かすより地面を転がしたほうがよっぽど効率がいい。

 あとは外部(おや)から支援されている可能性も否めないが、領地経営を学ばせるならばできるだけそういうことはしないはずである。

「そりゃ、そーだけどっ!」

 アレクシアもその程度の事には気付いているので、不敬と知りつつも修の言葉を肯定した。

「だいいち、カタリナさんは裏切らないよ?」

「どーしてそんなこと言えるのさっ!」

「ちょっと取引をね」

 修は研究に役立ちそうな知識を教えるという約束で、カタリナに協力を得たのだ。

 アレクシアがカタリナを睨む。

「だい、じょうぶ。わたし、ともだ、ち」

 とてもじゃないが修のつるした「美味しいえさ」に釣られているとは思えないほどのいい笑顔である。

「……変なの教えるつもりじゃないよね?」

「どうせ普通に広まってる抗老化療法(アンチエイジング)だし。こんなので安全が買えるなら安いもんだよ」

 まるでそれ以上の知識もあると断言したような発言に、カタリナは思わず目を輝かせた。

 裏切れば、それ以上の知識は永遠に手に入らないかもしれないのである。

 故にカタリナが裏切る可能性は存在しない。

 そして修以上の知識でカタリナを買収できる可能性は、まず存在しなかった。

「それに、知ってるひとは少ないほうがいいでしょ?」

「そりゃ、そーだけどさぁ……」

 暗号生成法など、できればバレる相手が少ないほうがいい。だからこそ、修は盗聴の可能性を少しでも下げるためにカタリナに同席してもらったのだ。

「とはいえ、理解できるのはヘティさんと……カタリナさんが、ギリギリ理解できるかどうかってレベル?」

「それ、とーちょーされても問題ないじゃないかぁー!」

「理解できるのと利用できるのは別物だしね」

「いちいちごもっともだけどぉー!」

 納得できないと両手を振り上げる。

「まぁ、わざわざこんな小さな部屋を用意していただくくらいですし……それはもう、人前では話せないようなお話なのでしょう? 修様」

「あ、はい。理解が早くて助かります」

 当事者であるヘンリエッタにそこを理解してもらえてホッとしたとばかりに、修は四人しかいない小さな談話室のソファーに体を預けた。

「まず、さきほど言った、数論はこの世でもっとも浮世離れした数学のジャンル、という発言ですが……これけっこう昔のことで」

「はぁ」

「今はですね、実用数学の中心にある知識なんですよ」

「……何に利用できますの?」

 修の持って回った言い回しに、ヘンリエッタは単刀直入に切り込んでいく。

「暗号生成アルゴリズムに使えます。鍵が、ばれても、大丈夫なヤツ」

「…………ふぅ」

 ぽすん、とヘンリエッタがソファーに体を埋める。その利用価値の高さに、思わず意識が遠くなりかけてしまった。

「フェルマーの小定理、というんですが……」

「えっ、ちょ、そんなにまくし立てたらヘティしんじゃうよ!?」

 ヘンリエッタを支えるように抱え起こしながら、アレクシアは強く抗議した。

「あー……えー、大丈夫ですか?」

「こ、心の整理を……時間を、いただけますで、しょうか?……」

「いやぁ、たぶんヘティさんだとその時間で同じようなこと思いつきそうで」

「買いかぶりすぎですわっ!?」

「いや、わりと冗談でなく」

 修はまったく表情を変えずに言った。

「三角形の相似条件とか、そんなの普通は知る必要なんてないでしょう?」

 数学とはあらゆる分野の積み重ねだ。

 知る必要のないことも知ろうとしていれば、自然と数学力も高まっていく。そしていつしか、関係のないと考えられていた公式同士が、繋がってしまうのである。

 そう、発見された当初は、なんら関係がないと思われていた微積分のように。

「まぁ、地図を作るのに使うとものの本で読んだことがありまして……私の実家、薬草(ハーブ)農園を多く所有しておりますから」

「あー、なるほど……」

 測量の歴史は本当に古い。

 修の世界では紀元前の古代エジプトで、ナイル川の氾濫によってどこからどこまでが自分の農地か分からなくなってしまう問題を解決するために測量が始まったのだという。

 日本では江戸時代の年貢制度も農地面積からどれほどの作物が取れるかを計算して取り立てていたので、測量と農業は切っても切り離せない分野なのだ。

「……そのうえ、ヒマだからって帳簿つけたりしてませんでした?」

「あら、分かります?」

「ああやっぱり」

 数学は結局のところ、数字に慣れないといつまでたっても理解ができない学問である。

 そうした訓練で手っ取り早い方法は数字の足し引きで、算数ドリルなどがないこの世界では帳簿などはその最たるものだろう。あとは数学を「数字を足し引きできればいい」から「物事を数字で表そう」に持っていけて初めて数学となる。

(高度な数学はむしろ概念とか哲学だしねぇ……)

 一足す一がなぜ二になるのか、という証明はその最たるものだ。

 ヘンリエッタは「ヒマを持て余していた」と言っていたので、そうした思考実験から思想哲学に発展するのはなんらおかしくはない。

「こう言うのもアレだけど。ヘティさんが頭がよくて体が弱いっていうのは、本当に奇跡みたいな幸運だなぁ」

 修は本気でそう思っている。

「失礼ですわねっ」

 体が丈夫に生まれたかったと願っていたヘンリエッタは、当たり前だが憤慨した。

「ま、それはそれとして。フェルマーの小定理、っていうんですが。まぁざっくり説明すると、ある自然数を素数で割ると必ず一余る、というのがフェルマーの小定理で……」

 アレクシアは既に首をかしげている。

 カタリナはギリギリ理解したように「う、うん……」とうなづいた。

「この定理って"除算の余り"に着目してるんですが、ちょっと飛ばして説明すると、これから桁数の大きい合成数を素因数分解するのは困難だっていう話になりまして……」

「合成数、というのは? あと、素因数分解」

「ああ、合成数は素数じゃない数ですね。素因数分解っていうのは、素数の掛け算でその合成数を作るというもので、この解は一通りしかありません。これを素因数分解の一意性と言って……」

「へぇ……」

 丁寧に説明すると、ヘンリエッタは納得したようにうなづく。が、この説明でカタリナが完全に脱落……修の予想通り、計算と言うよりは概念に近い、修の数学の説明に喰らいついていけるのはヘンリエッタだけだった。

「……というわけで、素因数分解が困難だっていう理由を安全性の根拠にしているのがこの公開鍵暗号というものです。これの発明者であるロナルド・リベスト、アディ・シャミア、レオナルド・エイデルマンの頭文字を繋げてRSA暗号と呼ばれてます」

「なるほど! 最初から鍵を公開してしまっているからこそ、鍵がもれても安全というわけですわね!」

「そういうことです」

 素晴らしく理解力の高いヘンリエッタに、修は満足げに頬を緩めた。

 ――ちなみにRSA暗号が発明されたのは二十世紀、現代でも現役の暗号化方法であり、れっきとしたオーバーテクノロジーである。

「これのすごいところは桁数を上げれば上げるほど強い強度の暗号になるところなんですよ。素数、大きなものっていつ出てくるか分からないですから」

 素数生成公式が誕生すると、この素因数分解が困難であるという前提が崩れてしまうので暗号化強度が下がってしまう。これがいわゆる、素数生成公式を巡ったドラマや映画で「暗号の意味がなくなってしまう!」と主人公が叫ぶ理由である。

「とりあえずこれが鍵生成アルゴリズムと復号アルゴリズムの基幹で、肝心の暗号化アルゴリズムは……」

「ええ、それこそじっくり腰をすえて作る必要がございますわね……」

 うふふ、とか、うへへ、とか。

 あはは、とか、ふはは、とか。

 おーっほっほっほ、とか、はぁーっはっはっは、とか。

 修とヘンリエッタは数学者特有の問題が解けたときのたまらない快感によって、とても奇妙な、悪人に多い三段笑いのようにも聞こえるおかしな笑い声を上げる。

 それはまるで、

「……まるで邪教のミサだよぉー」

 アレクシアが言うような、異端者扱いされてもしょうがないような笑い声だった。

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