#03
産業革命後に発生した都市部への人口集中に対応するために発達したのが集合住宅である。それ以前は基本的に居候という形態をとっており、特に貴族から住居を提供してもらう場合は食客または門客と言う。
なお食客はその技術や才能で主人を助けるのが常であるため、ここから剣客や論客という言葉の語源となった。
「ところでさ。おさむは何ができるのかな?」
朝に修が現れた中央広場を並んで歩きながら、アレクシアは問いかける。
貴族には守るべき義務がある。それは土地の守護であったり、法の番人となることでもある。そのために金を使うし、そのために金が与えられるのだ。
その大切な資金を、その義務以外に使う貴族を悪徳貴族と呼ぶのである。
「いちおう、貴族ってメンツが大事だからねぇー。ボクみたいなすえのすえにまで強要しないで、って思っちゃうくらい」
アレクシアは貴族の八女だ。すえもすえ、上七人すべてがほぼ同時にぽっくりと逝ってしまわない限りは家督を継ぐ権利すらない。
なのに家を盛りたてる義務はある。本人からしてみれば、もはや貴族と言うよりちょっと裕福で規律に厳しい家程度の感覚だという。
「まぁボクは、外に仕事持って、友達たくさん作って、そのへんいろいろぜーんぶ握りつぶしちゃったけどねっ!」
楽しそうに、ぐっとこぶしを握った。
「虎の威を借る狐ってやつか」
「きつねってひどくないー?」
狐はだいたいの国において詐術の象徴である。文化どころか世界も違うというのに、不思議な一致であった。
「俺は好きだけどなぁ、狐」
ただしエキノコックスを撒き散らすこと以外、である。
「ま、そーしてやらかしちゃったボクは、貴族だってことを自分で意識しないといけなくなっちゃったんだけどね? じゃないと、出自がただの裕福な家の八女になっちゃうし」
「それは大変だな」
出自が貴族であるかなしかでどう違うのかがまったく分からないため、修はわりと適当に返事を返した。
「ほんとうにそう思ってる?」
「えー、あー、うん……あ、そうそう、俺のできることだっけ?」
「……まぁいいけど?」
じとりと睨みながら「何ができるの?」と言外にせかす。
「あー、んー……」
そこでようやく、さて困ったぞ、と頭をひねった。
この世界で普通自動車免許も中型二輪免許なんてものも使う場所がない。就職に有利だと言われ、苦手だというのに頑張って大学のときに取得したきり結局使わない英検準一級など、英語のないこの世界でどう使えばいい?
「……柔道ができます?」
残る資格は柔道だ。中高と続けていたこともあってか、いちおう、二段である。
「なんで疑問系で、どうして敬語を使うかなぁー」
「入社試験ときの面接みたいだったからなんとなく」
「にゅーしゃ?」
こちらでの基本は縁故採用である。学識の水準がそれほど高くないこの世界では犯罪率が修の世界とは段違いであるため、縁故という形で証人を必要としているのだ。
そのためアレクシアには、入社という言葉の意味が分からなかった。
「……ま、いっか」
「なにが?」
「なんでもなーい」
が、無関係なことはどうでもいいとばかりにばっさりと切り捨てた。
「その、じゅーどー、ってなに?」
「日本固有の格闘技」
「かくとーぎ! おさむ、戦えるんだー?」
「まぁ、ブランクはあるけれど……あ、左手なら今でも素手でりんごが割れる」
握力にして、およそ六十キロ以上は必要である。
「へぇー……けっこう体ムキムキだしねぇ」
残念ながら今では「けっこうムチムチしている」となってきてしまっているが、格闘家として見るならばむしろ衝撃に強くなったといえるレベルではあった。
「そうそう。スーツに腕と肩、なかなか入らなくてさ」
「あはは、いい服着てるもんねー?」
「そんなに高いもんじゃないよ」
生地はさほど高いものではなく、そして大手のパターンオーダー品なので言うほど高級品ではない。が、普通に買うよりははやり値が張るのも確かだった。
「どれくらい強かったの?」
「あー……仲間うちじゃ、真ん中ぐらい? 通ってた学校は県大会レベルで……」
「がっこうっ!!」
アレクシアが素っ頓狂な声を上げる。
「俺、なにか変なこと言った?」
「ううん、なんでもっ!」
九年という義務教育が当たり前である日本人の修にはわからないだろう。アレクシアが驚いたことには、義務教育がないことが大きく関係している。
「でも、そっか、学校かー……卒業したの?」
「いや、するだろ普通」
「卒業したんだっ!? すごいねっ!」
アレクシアたちにとっては、学校は勉強を教える場所ではない。勉強だけなら、家庭教師や学習塾で十分である。
学校とは、上級貴族と下級貴族が対等の立場となる稀有な場所であり、なおかつ高い教養と品格を持つ人間たちが集まるサロンでもある。そんな場所で問題を起こすということは、とうぜん、他に在籍する貴族すべてにケンカを売るようなものだ。
そんな場所を何の問題もなく卒業したということは、それだけで優秀な人間である。
「えっと、まとめると。学校を出て、戦うことができる、でいいよね?」
「いや、まぁ、戦えはするけど、殺すのはダメ。あとできるだけ戦いたくない」
「……そうなの?」
「ダメなんだ」
法律的な意味で、という言葉を省略する。
「ふぅん」
それをアレクシアは、宗教的事情で、という言葉に変換した。
「まぁ、お坊さんみたいだしねー」
「俺の頭を見て言うのはやめてもらおうか」
中高と修は柔道を続けてきたために、髪を伸ばすのは基本的に苦手だった。そのため、修は短く刈り込んでいる。
ただアレクシアにとっては、修の髪型はそれこそ僧侶か、薄い人ぐらいしかなじみがなかったがゆえのすれ違いであった
「第一、俺は坊主じゃない」
「ちがうの?」
「資格すらもってねぇよ」
「ふぅん……」
少しばかり残念そうに、しかし、やや意地悪な笑みを浮かべて修をじぃっと見つめる。
「な、なんだよ?」
「……いいカツラ、あるよっ」
「やめろぉっ!」
修の世界でもハゲをおおいに気にした歴史上の人物は非常に多く、かのカサエルも相当悩まされていた。さらに遡れば、紀元前の古代エジプトに存在したパピルスの医学書にはなんと「ハゲ治療」の項目があったという。
――なお、この説明に他意はない。
「まぁ、カツラとかはあとで教えるとして」
「わりとマジでやめろ」
「あはは、冗談だよー?」
ちょっとした言葉一つで首の飛ぶ貴族社会にいたのだ、アレクシアとて冗談が通じる相手かや、引き際はとうぜん心得ている。
今回はすこしばかり踏み込みすぎたが。
「ところで、おさむは学校でどんなこと議論してたの?」
重ねて言うが、こちらの学校は貴族のサロンのようなものである。教える教わるではなく、自ら学びその知識でもって議論する場所なのだ。そのため、どのような事を学び教わってきたのか、などという言葉は決して使わないのである。
「えーっと……まず、小学校で国語算数理科社会。あと体育」
そんな貴族の言葉じりなど、一般人だった修が上手に汲み取れるわけがない。
「算数はわかるけど……りか、って?」
「科学の基礎の基礎みたいなもん」
「へぇー……」
家庭教師が魔法を教えるようなものかとうなづき、
「たいーく、は?」
「体育は……投げたり、走ったり、泳いだり」
「およぐっ!」
義務教育で体育――特に水泳を教える国は意外と少ない。
海に面していなければせいぜい水遊び程度、ふつうは生涯泳ぐこともない。
そのうえ運動のための広いグラウンドなどをいちいち用意するよりも、クラブ活動でコミュニケーション能力を育みながら個々人で運動してもらったほうが手間もコストもかからないというのも理由の一つだろう。
「おさむ泳げるんだ!?」
「そら泳げるよ?」
「うわー! うわー! すごいねぇー!」
ちなみにアレクシアは泳げない。泳ぐ必要がないからだ。
だが日本人は泳げないとスイミングスクールに子供を通わせるなどして、少しぐらいは泳げるように教育してしまう。これがどれだけ凄まじいことか、当たり前のように考えている修にはまったく理解できなかった。
「いくつのころ卒業したの?」
「小学校は……十三、ぐらい?」
「だいたいボクとおんなじぐらいなんだねぇー」
「そこから中学校に入って」
「また学校!?」
「……いや、普通だろ?」
自分が異世界に来ていることをまったく考慮していない発言である。
「ふ、普通なんだぁー……?」
「そこでまた国語数学理科社会に英語と体育と……ここから柔道」
「ふ、ふえてるー!?」
「普通だって」
繰り返すが、日本がすこしばかり異常なのである。
「ち、ちなみに数学って……その……」
「算数よりちょっと難しいヤツだね」
「ですよねー!」
「なんだ、よかった。翻訳がうまくいってないのかと」
「あはは、めったにないから、だいじょーぶ!」
笑って誤魔化す。
「まぁ、やってることはあんまり変わってないのを三年間通って……」
「さんねんっ!」
「三年間また学校いって」
「また!?」
「……だいたいおんなじことやりながら四年制の大学出て」
「だいがくぅ!?」
もうさきほどから驚くことしかしていないアレクシアに、さすがに修も眉根を寄せた。
「…………俺、何か変なこと言ってるかぁ?」
「いや、だってさ、ちょっとおかしくなあい?」
「おかしい?」
アレクシアたちの成人年齢は数えで十五歳、子供を産む産まないは別として、十二歳で婚姻関係を結ぶことも一般的である。ちなみにアレクシアは学校に十三まで籍を置いていたが、それは自分の立場を手に入れるためにおよそ一年ほど余分に学生を続けたからだ。
なのに、修は学校が変わったとはいえ十六年間、もはやちょっとした学者先生の経歴だ。人によっては貴族に家庭教師として召抱えられ、そこそこ食べていけるような立場であってもおかしくはない。
「別に、普通だけどなぁ」
それを彼は、その一言で済ませてしまう。
「いや、うん……もう論客でいいよね?」
もはや追求するのも面倒だと、アレクシアは理解することを放棄した。
「あー、うん……ちなみに、どんなことするんだ? できることと出来ないことあるし」
それはイヤミか、と睨みつける。
その意味がまったく理解できず、修は首をかしげた。
「……たとえば、家庭教師とか。ボクの友達のところにいる人は、投資のアドバイザーだったはずだよ」
「家庭教師はいいとしても、経済学かー……さわりしかやってないんだよなぁ……」
むしろなんでやってるんだよー!? そう声を大にして叫びたい衝動を必死にこらえる。
「ぼ……簿記とかできちゃったり?」
なお現在の複式簿記は十四世紀から十五世紀ごろにヴェネツィア商人によって発明されたと考えられている。この複式簿記によってかなり計画的な資金運用が可能であるのだから、とうぜん、この世界の商売人たちが発明しないわけがない。
「試験落ちたから資格持ってないけど、読むぐらいなら」
取得の成否はともかくとして、実は資格マニアのケがあったりする。
「よ、よめるんだー……」
ちなみに、こういった知的財産はその門閥の秘伝である。当たり前だが、今の日本のように広まっているような技術ではないのだ。
「おさむ、なんていうか……あたまおかしいよね?」
「ハゲだって言いたいのかテメェ」
「おお、一軒家……」
実家のしがらみを仕事と友人の手を借りて握りつぶしたと言ったが、戸建ての家に住んでいることに驚いた。
「しかも庭付き」
「騎士の家が間借りや庭無しってどうなのさ?」
私物として武器防具を持ち、より位が高くなれば馬や従者を引き連れる軍人である。
そうした職の人間が間借り庭無しでは少々手狭となるし、さらには内戦ならば砦として、終戦後は炊き出しの場所として開放することもあるだろう。
「まーでもじっさいボクの家じゃなくて、ハコそのものは騎士団のものなんだけどねー?」
アレクシアはこの家に住む権利を騎士団から購入しているだけの、いわゆる賃貸住宅というわけだ。
それでも、アレクシアの給金では友人に借金しなければならなかったらしいが。
「塀もしっかりしてるし、レンガ造りですっごく頑丈だし。表通りの噴水からちょっと遠いけれど、不満はそれくらいかなー?」
二階建てで、見た限りでは部屋数もそこそこ多いようだ。ちょっとした大家族が住んでも十分に部屋を確保できるだろう。
「噴水、庭にあるといいんだけどねぇー。国が許してくれないんだとか」
「噴水ぐらい、別にいいんじゃないか?」
「あったほうがいいよー!」
島国で生活用水の入手方法に事欠かなく、井戸も用意しやすかった日本人にとって噴水は観賞用でしか馴染みがないが、諸外国では噴水は生活用水として利用されていた。
いわゆる井戸である。
そしてその生活用水に毒や疫病菌を混入されないため、新たな噴水の設置には国の許可が必要なのだ。
なお、修は噴き上げ式の芸術性が強いものを想像しているが、アレクシアはライオンの彫刻の口から水がドバドバ出るタイプを想定している。定義上はどちらも噴水である。
「――さてっ」
家を囲う塀の、鉄の門扉に手をかけた。
「ウチにはハウスキーパーさんがいるんだけれど、元が学者先生の論客ってことでいい?」
「なんでそうなるんだよ? よくねーよ」
「だって、学校にいたんでしょ?」
「生徒としてな?」
「よっつも渡ったんだよね?」
「小中高大な?」
「……ふつうに、学者先生じゃない?」
「教師の資格はもってねーよ!」
「十六年も勉強してるのに、必要あるのー?」
「ないこたぁない。が、とりあえず学者先生は無しで。俺、別に難しい話ができるわけじゃないし」
「むー……」
身分の詐称は大罪であるのだから、別にアレクシアも無理強いするつもりはなかった。
「じゃ、聖職者?」
「だから、資格ねーって……頭を見るな頭を! 俺はハゲじゃねぇっ!」
「じゃぁおさむってなにさー!」
「一般人だっ!」
「おさむのような一般人がいるかー!」
さすがのアレクシアも、これには両手を振り上げ怒っているんだぞと強くアピール。
アレクシアたちからしてみれば、頭のおかしくなるような学歴の人間が一般人であるわけがないのだ。
「いちおうね! 建前って重要なのっ!! わかってる!?」
「そりゃあ、じゅうぶん分かってるって」
「じゃー、ボクさっき、何にするって言ったっけ?」
「……論客?」
「そう! で、押しが強くないといけないから、学者先生ってしようって言ってるのさ」
「押しは要らんだろう、押しは」
「肩書きってすっごく重要なんだよ? いろいろ握りつぶせるし、ボクもすごくお世話になったんだから間違いないよ!」
小市民的な日本人の修にとって、それほどの権力はいろいろと怖すぎて遠慮したいのである。
「そうは言うけど、俺は教員免許ないし修士も博士も取ってない一般人だから、学者先生だとすごく語弊があるの。分かってくれる?」
「むー……!」
さきにも言ったが、身分詐称は大罪だ。
修の世界でどのような基準があるのかをちっとも分かっていないアレクシアだが、さすがこれに対する反論は思い浮かばないため引かざるを得なかった。
「じゃぁ、おさむってなにさー?」
「ただの論客でいいんじゃね? 柔道の段位はあるけど、戦えとか言われても無理だし」
「……文句いわれたら、おさむのせいだからねー?」
「ハウスキーパーから文句言われるのか……」
「だってボクが直接雇ってるわけじゃないもん。騎士団の中の別隊の人だもん」
「ああそうなんだ?」
いわゆる事務方とかそういった後方支援部隊の人間なのか、と勝手に納得する。
「ちょっと厳しいトコあるから、なにかツッコまれたら、おさむが対応してよ? ボクと違って、むずかしい本とかすらすら読めちゃうんだから」
「はいはい、わかったわかった」
「ほんとにたのむからねー? もー……」
ほおをふくらませ、鉄の門扉を押し開きながら屋敷へと先行していく。
「……」
門から扉までは街路と同じく石畳だ。ちょっと脇に視線を逸らせば芝生や花、背の低い雑木で簡素な庭園が作られている。
「まー騎士団のハコモノは大体こんな感じだよ。ボク自身の出身もアレでソレだから、たまに偉い人が来るしねぇー」
べつに視線をこちらに向けていたわけでもないのに、先を歩いていたアレクシアがその視線に応じる。
なぜ考えていることが分かったのか、
「……だいたいは慣れ、かなぁ?」
それを口にする前に答えが出されては、もはやそのまま黙るしかなかった。
○
現代日本ではなかなかお目にかかることの出来ない、腰にとどくほどの長い金髪に思わず見とれてしまう。もっとも、別に綺麗だとかそういう気持ちではない。
どちらかといえば、なかなか見ることのできない見事な長さと金色からくる「ものめずらしさ」の感情のほうが先に来ていた。
「えっと……彼はおさむ。おさむ、さむら」
「あ、どうも。修です」
「どうも、おさむです。って」
修の言葉は目の前の少女に通じないため、アレクシアによる通訳が入った。なまじ自分の国の言葉に聞こえるためか、なんともマヌケな状況に見えてしまう。
「で……こっちが、このウチのハウスキーパー」
紹介された少女はアレクシアよりもずっとクールで知的そうな、それでいてテンプレートな気の強いお嬢様のような顔つきである。身長もアレクシアより高く、アレクシアよりもずっと貴族然としていた。
服装はメイド服ではなく、リンネル製の白いワンピースだ。袖や裾にレースや飾り布がほどこされている。さすがにこんなオシャレな服装で家事なんて行うはずが……とまで考えたところで、他意はないが、はたと昨今の日本のメイド服を思い出す。
「――――ヘンリエッタ、ハーブ――」
「私はヘンリエッタ・ハーブです、よろしく。って」
ヘンリエッタと名乗った少女が右手を差し出す。
「えっと、おさむのとこに握手って風習ある? 友好関係結ぶって感じの」
「ああ、あるある。ほぼそのまま。……これはどうも、修です」
「どうも、おさむです」
「――オサムライ――――」
「災難でしたね、おさむらいさん……おさむらいさん、ってなに?」
「あ、今朝にちょっと。名前が上手く伝わらなくて」
「――」
「あー、なるほどー……声かけてくれればよかったのに」
なんの会話をしているのかは分からないが、どうやら今朝の広場にいたらしい。
「めんどくさかった、って……ちょっとひどくないー?」
「――、――?」
「うっ……まぁそうだけどさぁー?」
片方の言葉がわからないからか、まったく話についていけない。英語が分からなかったときの、外国人の特別講師と英語教師のやり取りのような感じであった。
「えっと、なんだって?」
「ボクがでていったから、きっとウチに拾ってくるんだろーなーって思ってたんだって」
「俺は犬猫か」
「修はどっちかっていうとタヌキでしょー」
キツネって言った仕返しだよー? と、小さくウィンクする。
「でぇー……なんかだいたい察してくれてるから、さっきの相談がほとんど無駄になっちゃったわけだけどー……」
「――?」
「ああ、うん。とりあえず、論客」
「――、――。――?」
「あたまいいよー? ついこないだまで、学校に行ってたみたい」
「ついこないだ、っていうのには語弊があるなぁ」
ちなみに修、今年で二十七歳である。
「十六年も行ってたなら、ホントついこないだじゃんー」
「――!?」
「おさむがうそつきじゃなかったらね」
「嘘ついてもなんの得もないから。それで早く帰れるっていうんなら考えるけど、代わりに難しいこと頼まれたら目も当てられない」
「だよねぇー。正直に言ったほうが、かえった後とかややこしくなくていいもん」
「――、――」
困ったように、ヘンリエッタは肩をすくめる。
「なんだって?」
「馬は目の前のニンジンで崖から落ちるんだって」
「……ようするにバカはすぐ嘘をつくってことか」
「たぶんそんなかんじー」
目の前につるされたニンジンを追いかけて崖から落ちる馬を想像し、さもありなんと肩をすくめた。
「まー、わかってるならうそなんてつかないってことだし、わかるていどはあたまがいいね、ってことを言ってるんじゃないのかな?」
「そこで翻訳者が疑問系はやめろよ」
「だーってボクもよくわからないし」
「それはさすがにどうなんだよ……」
「ほら、ボクって基本的に武官だし」
頭がいいから偉いは成立するが、偉いから頭がいいはなかなか成立しない。いわゆる戦争バカとか脳筋のたぐいだ。
とはいえ、アレクシアは頭が悪いほうではない。
言葉遊びから権謀術数まで渦巻く貴族社会で、頭が悪かったら貴族として致命的だ。ていよく大儀をでっち上げられ身包みはがされてしまうのだから、さすがにその程度の教育は施されていた。
――本人がそれを常日頃から活用するか否かはさておくとして、だが。
「十二枚の金貨と天秤があって、その金貨のうち、金が混ざっている比率がひとつだけ違うのが一枚混ざってる。おさむは天秤を使って、何回でこの一枚を見つけられる?」
事情は汲むが、建前とはいえ論客。本当に十六年もの学問を修めているのならばそれを証明してみせよ、というのがヘンリエッタの言い分であった。
「金貨の、金の含有量の話か」
「そうそう」
金は有史以来、もっとも有名な貴金属の一種である。自然界にそのまま存在するため精錬が必要な鉄よりも早く発見することができたからだ。紀元前七世紀には既にリディア王国でエレクトロン貨という金貨が鋳造されている。
「ちなみにボクから説明させてもらうと、これは両替商とかでやってる有名な問題だねー」
当然だが国によって金貨の金含有量は異なるし、時には偽造貨幣も流通していることがあるだろう。この手法は偽造貨幣の特定や、貨幣が健全であれば金の含有量から価値や為替レートの決定などを行うものである。
ようするに、金を扱う人間――この世界の学力水準ならば、知識人たち――にとっては重要な技能の一つといえた。
「その一枚が他より軽いか重いかは?」
「重さは? ――分からないものとする、だって」
「重さが分からないとちょっと手間だな……」
紙幣などが安定した価値を保つことができる高い信用性のある日本ではあまり実感が湧かないだろうが、この程度の手間を惜しんでいては市場が崩壊する。
「答えは最大で三回」
「手間だけど三回、だって」
「――?」
「理由を説明してください、って」
「うっわ、クソ面倒な……」
この十二の金貨――天秤クイズは数学パズルでも非常によくある問題だ。
故に、公式が存在する。
N回数で見つけられる最大の金貨の数は、三のN乗から一を引き、その解を二で割ることで求められるのだ。
この公式をポンと出して説明するのは非常に簡単だが、
「まず、四枚ごとのグループを三つ作る。うち、一回目で二つのグループを比べ――」
修は数学の公式というものが受け入れられるかという問題を考慮し、それぞれのパターンを説明する非常に手間のかかる作業を行うことにした。
さすがにアレクシアたちを甘く見すぎているが――結果的には正しい。
修は実感が湧かないが、偽造通貨や価値ある通貨の特定などに一役買うこの手法は非常に重要だ。
通貨危機が起こってしまえば、戦わずして国ごと消滅なんてこともありえるのだから。
「――で、最大三回」
なお、ダメ押しとばかりに三十九回までなら四回で可能だということを付け加えるかどうかは悩んだが、
「うー……あたまがぱーになっちゃうのぉ……」
通訳を終えたアレクシアが泣き言を言うのでやめることにした。
「……通訳してるだけで頭から煙ふきだしそうのはどうなんだよ?」
「ボクに頭を使わせないでほしいなっ」
単純に、使ってないからさび付いているだけである。
「――――」
「簡潔で分かりやすい、だって」
「簡潔かなぁ……」
大切なのは手法、考え方である。公式で提示したほうがよっぽど簡潔だろう、というのは修のワガママだ。
「――、ヘティ。――――」
「なんて?」
「ようこそ、学者さん。私のことはヘティと呼んで構いませんよ」
「ああ、よかった……」
つづけざまに無理難題を放り投げられるのかと想像していたが、質問はどうやらあの一問で終了のようである。
これはアレクシアから聞き及んだことを信じたことを前提として、問題には即答、その手順も軽くそらんじられたという結果をみせたことが大きかった。
「できれば頭使わずに生きていたい」
「だよねー」
「――?」
「ん? えっと。おさむ、頭使わずに生きていたいなー、って……」
「――――」
ハッ、と呆れたように鼻を鳴らす。何を言っているかは分からないが、しかしさすがに想像しやすいリアクションであった。
「ボクと一緒じゃ無理とかなにさー!」
アレクシアは怒りをあらわにするように両手を振り上げる。
それを見て、さもありなん、と思うのであった。