#28
日が山の向こうへ沈もうとする頃。
ヘンリエッタが人差し指を立てて、修を片目で見つめていた。
「……およそ十二.八メートルですわ」
朝から始まり、日の沈む今の今まで、何問、何十問と出し合いながらもいっこうに決着がつかない。修が出した今回の問題は「互いの距離がどれくらいか、目測でできるだけ正確に」というものだった。
「三角形は角度が同じであれば同じ形になりますので、私の視界に移る修様の頭からつま先までの長さと指を合わせて……あとは私が伸ばした指と、腕の長さから」
「……素晴らしい!」
経験に基づく計算方法で来るだろうと思っていたが、まさか三角形の相似条件を上げられるとは思わず、つい声を大きくしてしまう。
「ちょっと舐めてましたね。まさか三角形の相似条件が出るとは……」
「あら、ハンカチを使って、屋敷の高さを求めましたでしょう? ……途中で止められましたが」
「ああ、なるほど……そういえばそうだ。迂闊だったな……」
「ふふ。そもそもこんな知識、砲撃戦を旨とする魔導士たちにとっては常識ですわよ?」
アレクシアが「どこの常識だよー……」と呟く。
「じゃ、次どうぞ」
「ええ。では――と、あら?」
ふらり、と立ちくらみがしたようにその場でたたらを踏む。
「っと、大丈夫ですか?」
お互いが十数メートルも離れているので、修の手は彼女に届かない。
「いえ、大丈夫ですわ……」
近くに控えたメイド数名に支えられながら、ヘンリエッタは乱れた髪を手櫛でなおし、疲労の色が濃い顔を無理やり挑発的に笑わせた。
「ええ、これほど楽しいのは久しく味わったことがありませんもの。倒れてなんていられません」
既にお互い、砂時計をひっくり返すようなことはしていない。お互いに問題を交換し合う"数字遊び"のような様相を呈してきていたこの私闘を、ヘンリエッタはそう評した。
「ほとんど一日中こんなことができるなんて、私も初めてのことですのよ?」
頭を使うのにも体力がいる。本人もここまで持つとは思わなかったと驚いていた。
「……ねぇ、まだ?」
「もうちょっとかかるかも」
もはや彼女は気力が続く限り立っているだろう。修もその気配を感じて、改めて気を引き締める。
――しかしそれ以上に、ヘンリエッタとの論議が楽しくなってきていた。
「上着、貸しましょうか?」
まだ続けたい。
ここで倒れてもらっては困る。
気づけは既に上着を脱いで、差し出そうとしていた。
「結構ですわ」
気を利かせたメイドが持ってきた肩掛けを受け取る。
「さ、続けましょう?」
「……えっ?」
受け取ってまで続けるのかと、半ば茫然としながらディビットが声を上げる。
「いや、その、なぁ……日を改めないか?」
当たり前だが彼本人はここフォーブリッジの領主なので、それなりに仕事があるのだ。日を改めてもらわないと、この私闘の間はずっと仕事が停滞してしまう。
それに修とヘンリエッタの間では三日三晩の論戦にもなろうかという白熱した戦いだが、しかし周囲の人間から見れば「いったい何語を喋っているのだ……?」という状況である。
もはやそれは一種の苦行であった。
「マリー嬢はあの赤い星が見えるか?」
「えーっと……あー、はい、二つ並んでるヤツですよね?」
「なんと! 占星術の才もあるか!」
「なぁーっはっはっは! ワシ自慢の生徒じゃからなぁー!」
「先生とは呼んでますけど生徒じゃないですねー」
「なんじゃとー!?」
その証拠にアレックスと茉莉、そしてフランシスカはまったく関係のない掛け合いに興じていた。少なくともフランシスカは修達の私闘に興味を示さなければならない"魔女"という肩書きを持っているのにも関わらず、だ。
――数学知識がどれだけこの世界で広まっていないか、そしてどれだけ軽視されているかがよく分かる一面でもあった。
「その、日も落ちたのだ。ヘンリエッタ嬢も体力がそろそろ限界でもあることだし……」
「そんなっ! ここからがおもしろくなるというところですのに!」
「そうですね。まだタネはありますし」
そんなのキミらの間だけでしょ、とアレクシアが目で訴える。
「……とりあえず、星が出てきたことにちなんで五芒星の問題を」
「あ、いいですね。風流って言うか……」
まだこんな戦いが続くのか、とディビットが生気のない表情をする。
そしてまったく関係ないかのように「あの星の解釈は……」と語っているグループがいる。
「……とり、あえず。一度、休憩……これ、以上は、ヘンリエッタ、の、体に、障る」
そんな呆れるような状況で、鶴の一声を入れるようにカタリナがそう口にした。
「はぁー……全力を出せるのは幸せですわね……」
恍惚とした表情でぬるめに淹れられた緑茶を味わう。
「心地よい疲労、とか言いますもんね」
「もはや私闘など、もうどうでもよくなりますわ……」
途中からそういう空気だったということは決して誰も口にしない。言いそうなアレックスは茉莉と占い談義だ。
「……このまま、攫っていただきたいくらい」
「ちょっとなにいってるかわかんないなぁー」
半分呆けていたアレクシアが口を挟む。
「おさむはボクのだ」
「それはそれでしょうに」
「本人無視かい……」
思わず口に出す。二人は修を睨みつけるように振り返って、
「修様はどちらの味方ですの?」
「おさむはどっちの味方なの?」
同じことを口にした。
「おー、あれが世に言う修羅場というヤツですねー?」
「で、あるなぁ」
「さて、ワシも混ざって……」
「あ、先生は座っててください」
「なんじゃとー!?」
戦線からものすごい勢いでスピンアウトしていった数名がなんとも無責任なことを語っている。
「……休憩、の、意味、わかる?」
カタリナはこめかみを押さえた。
「お言葉ですが。休憩と言いますか、これ、休戦ですわよね?」
暖炉のあるあたたかな部屋で、なんともぬるい空気での言い争いだ。
「休戦、して、仲直り……よく、ある、こと」
「なくはないでしょうが……」
知力系の私闘ではたまにあることだ。
この国には幾度ともなく休戦を挟み、三十年間ものあいだ戦い続けた男たちがいる。
その決着は片方の寿命が尽きたことによるものだったが、そのころには既に私闘という名の遊戯会であったという。
「そんな、に、問題なら。私が、もらっ、ちゃうわ、よ?」
言うこと聞かないと横から掻っ攫うぞ宣言である。
「そんなのずるいですわっ。カタリナ様に取られてしまっては私、何も言えないじゃありませんか!」
理不尽だとヘンリエッタは声を上げる。
「カタリナ」
「なに?」
「おさむはボクのだよ」
カタリナは静かに首を左右に振った。
「ふむ、確かに小娘のもんじゃないの」
「先生、座ってないと」
「やっかましい!」
横合いからフランシスカが、茉莉に突っ込まれながらも口を挟む。
「まずひとつ、赤毛が占うに、わしのつがいがそれらしいな?」
「……はぁ?」
アレクシアが不機嫌な声を上げた。
「ふたつ、すでに決闘によってこやつの権利はわしのもんじゃ」
聴いた瞬間、アレクシアはその元凶をぎろりと睨み、
「――赤毛ぇぇええええ!」
びりびりと窓ガラスが震えるほどの大絶叫。怯えたように茉莉が肩をすくめ、耳を押さえた。
「おま、なんてことしてくれたんだぁ!」
「お、おちつけ嬢! まさか俺が、兄弟の身柄をそう簡単にかけるような常識知らずに見えるというのか!?」
「そういうことがなくてもっ! 相手にそう取られちゃったらおしまいなんだよ!」
「なんと!?」
「はっはっは、アホよのぉ」
フランシスカはからからと笑う。
「ほんにアホすぎて、詐欺に遭うタイプじゃ」
まさしくフランシスカが評したとおりだ。あまりにも素直すぎて、アレックスはそうした貴族のやりとりにはまったく向いていない。
「人の禍福は竜の吐息の如く口から吐き出される……」
この世界での言葉とはそれほど重いということだ。
「……とはいえ、ワシも鬼ではない。そして言われたことをそう簡単に信じるほどの愚か者でもない。そして、このように他人の男を奪ったとあっては我が竜の血が泣く……ならば、チャンスが与えられてしかるべきだとは思わんか?」
フランシスカは赤い瞳をらんらんと輝かせ、そしてぎらりと鋭い牙をむく。まるでアレクシアやヘンリエッタを威圧するかのように大きく翼を広げ、口から小さく、炎の吐息を吐いた。
「ワシもちょうど、あの決闘に不満があっての……"薔薇騎士"と名乗るならば、竜に挑むが誉れではないか? それまでは……」
ちらとカタリナに目配せ、
「……私、が、責任を、もって、預かる、わ」
こくん、と頷いた。
○
「かぁーっかっかっか! 見たか! これが主演女優の貫禄じゃ!」
カタリナの部屋にこっそりとやってきた意味などなくなってしまうほどの高笑い。気分よくワインを乱暴にどばどばとグラスにそそぐ。
「だから、酒、禁止って言ったでしょ!」
「ああんっ! 酒は魂を燃やす燃料じゃのに!」
修にひったくられ、悲しそうに手を伸ばした。
「で……これでよかったんですか?」
「欲を言えば勝って欲しかったがなぁ……まぁ予定は変わらぬよ。のぉ、化け物」
「化け物、じゃない、もん……」
拗ねたように唇を尖らせる。
「……勝って、くれたら、一番よかっ、た。どっち、も、ちょっと、頑固だ、し」
「ま、序列は大事じゃな。マウンティング、超大事」
なんとも野生的な意見であるが、単純に実力で序列を作るのは非常に有効であることには変わりない。頑固な相手には上と下をハッキリと決めてしまったほうが手っ取り早いことは多々あるのだ。
「とはいえ、負けなかったのであればどうにでもなろう」
「そう、ね」
「そうなんですか?」
「そうじゃよ?」
あっけらかんと答える。
「竜を、倒して……物語、が、大団円」
「王道じゃな」
同意するようにカタリナが親指を立てた。
「あれじゃ、王道ならたとえ展開が多少強引でも人は納得するもんじゃ。納得するからこそ人に支持された王道となる、とも言えるが……この場合、納得しなければならないのはあのピンク髪」
「アレク、シア」
「あと金髪」
「ヘンリエッ、タ」
「どーせ茶番なのはみな分かっておること、ならば茶番で潰して何が悪い! ふはは! 我が王道でうやむやにしてくれるわ!」
邪悪な、というにはいささかイタズラ小僧っぽい笑みを浮かべた。
「……うやむやになるんですかね?」
「なる、と、思う」
フランシスカとカタリナ、修にとって信じられるのはカタリナのほうだ。そのカタリナが断じるようにうなづいた。
「うやむや、に、なって……損、するのは、誰も、いない」
「……横槍じゃないですか? 今回の、完璧に」
「だから勝てと言ったのよ」
とはいえ、
「結果的には問題なかろ。あるべきところにあるべきものがない。結果、あの私闘に正当性はなく、ご破算。お流れじゃ」
負ければまるでアレクシアと修の仕組んだ悪あがきのように見えてしまう。それさえ避けられるならば別に今の状況でも問題はなかった。
「ま、今の状況は理想的ではないが、現実的ではある」
「問題、は、これから」
「……牝の顔をしとったからなぁ、金髪」
「ヘンリエッ、タ」
二人は神妙な面持ちで考え込む。
「あれの経歴は知っておるか?」
「体、弱、かった」
「かなり鬱屈した青春だったとは……」
「ああ、良くある手合いじゃな」
そりゃしょうがないとばかりに渋面を作る。
「そら、互いに認められる相手が現れればああもなろうよ。ワシ、半分も分からんかったし」
「半分、ぐらいなら……」
「……半分とちょっとじゃな」
フランシスカが若干の対抗意識を燃やして訂正した。
「もうちょい、さくりと一撃で仕留めるようなものは出せなかったのか?」
「あるにはあったんですが……証明に三日はかかる難問ですので」
「……もうちょい加減したものはなかったのか」
「はぁ……いかんともしがたくて」
単純なことでも、物事を数学的に証明するとなると非常に面倒くさいのだ。
たとえば「一足す一は二」を数学的に証明しようとすると「記号の説明」「自然数の体系」「自然数の加法」を経て「一足す一は二の証明」となる。
もっと言えばここに「十進数の定義」なども加える必要がある。二進数では「一足す一は一○」となってしまうからだ。
「うかつな問題だと、自分の首を絞めることになりましたし……」
回答するのも三分だが、問題を考え、説明するのも三分なのだ。下手な問題は解説だけで三分を余裕で上回ってしまうのである。
(……でもヘティさんなら理解してくれそうだなぁ)
時間を表現するのに使用される六十進数はともかくとして、一般的な人間が二進数やら八進数、十六進数に価値を見出すことは少ないのである。
二進数なんかは「千本のワイン問題」を分かりやすく解くのに非常に有効なのだが。
「こっちはこっちで牡の顔じゃ」
「いや、そういうんじゃないですよ? まぁ、確かに話は盛り上がってしまいましたけど……」
修が大学時代に学んできたものは数学である。
あの、たいがいの学生に「将来なんの役に立つんだ!」と言われる率が高い(修調べ)の数学である。
エレベータの制御から通信、暗号、金融、建築、天候予測。ありとあらゆる分野で必ず利用されるが、研究分野においては女性の比率がかなり低いことで有名な数学である。
その男女比のせいで(恋愛的に)灰色のキャンパスライフを過ごしてきた男として、ある日突然目の前に「数学の話ができる美人」が現れたら、心惹かれないはずがない。
心惹かれないはずが、ないのである!
「……ひとまずこの私闘はうやむやにするとして」
「あと、は、あなたの、口八丁……」
「うわぁ」
肝心のところは丸投げであった。
「あのままひとまずの決着、付けたほうがよかったんじゃないですか?」
「あなた、が、助手になるなら、大、歓迎……でも、ヘンリエッ、タは、ちょっと、ダメ」
見捨てればいいのだろうが、カタリナとしても人情的にそれができない。
アレクシアたちの予想通り、ヘンリエッタが負けていればそのままずるずるとヘンリエッタを引き取り、期間が長くなれば助手あたりにすえていただろう。
だからこそカタリナはフランシスカと悪だくみをはじめたのである。
「それはまた、どうして?」
「友達、までなら、大、歓迎……けど、彼女は、うしろ、に、ハーブ家、あるから」
人が良くとも家が悪いことは多々ある、ということだ。
「……ちなみに俺の場合は、なんで?」
「帰れ、な、ければ……ただの、難民」
ぐっと親指を立てる。
「ひでぇ」
だが事実でもあった。
「ワシは自分で負けと認めた戦いに、ぬしらの反則と言うケチがついたからの。あれは茉莉のせいになるが……ともかく、竜の血を引くものとして、あの勝利はワシのプライドが許さん」
「だから、改めて戦うと?」
「そうじゃ」
「……アレクシア、って、強いんですか?」
機会に恵まれず、一度も戦う姿を見たことのない修は問いかけた。
「かな、り」
カタリナが断言すると、フランシスカは嬉しそうに「ほう……!」と唸る。
「ともすれば財を分けやってもよいかもしれん」
「剣、は、苦手」
「ではなんだ、槍か? ……いや、嫌がらせに金で出来た計算棒でもいいかもなぁ!」
上機嫌に笑う。
「なるほど、これは楽しみだ! この気分が冷めやらぬうちに眠るとしよう! きっと、よい夢が見れるだろうな!」
カタリナの目の前で、彼女は手の平に蒼白い光を作る。
びくりとカタリナが反応するが、フランシスカは鼻で笑いながら、
「見るがいい、次元の魔女が持つ魔法を――!」
蒼白い光を両手で押し広げるように、ぐわりと開いた。
「う、わぁ……!」
蒼白い光の隙間から、この部屋と同じような間取りをした誰もいない部屋のベッドが覗く――フランシスカにあてがわれたゲストルームだ。
「短距離、移動!」
カタリナがきらきらと瞳を輝かせる。
「どう、やる、の!?」
「なぁーはっはっはぁ! だれが教えるものか! 知りたくば自分で研究してみるがよい、ライバルは多いほうが、なに、張り合いがあるというもの!」
小さな空間の穴に自分の体を滑り込ませる。
「必要な分は見せた、あとは自分で何とかするがいい――!」
フランシスカは修たちの目の前で、ふっと消えた。
「……やっぱり、助手、ほしい、な?」
「いや残りませんて」
物欲しそうに決められた流し目を、修はあさっての方向に投げ飛ばした。
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