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#27

「赤毛の小僧の……あー、兄貴だったか」

「フランさん」

 それはシーツを羽織って、まるでマントかなにかを纏っているようだ。

 自身の持つ"ヴァシアス火山の暴君(ドレイク)"という恐怖の代名詞(ネームバリュー)に使用人がぎょっとしてしまわないための配慮なのか、それとも半分変温動物の血を引いているせいで石造りの廊下は少々冷えるからか……そこまでは分からなかったが、子供がお化けのコスプレをしている程度には愛らしい格好であった。

「なんでこんなところにいるんですか。安静にしててくださいって言ってたはずなのに」

 そこはアレクシアの部屋から出てすぐだ。いくらゲストルーム同士が近いとはいえ、彼女の部屋は少々離れている。

 何の用事があってこんなところに立っているのかを問いかけた。

「トイ……じゃ。言わせるな恥ずかしい」

「ああ、なるほど……」

 どこまで人間と一緒なのか生物学的な興味があるが、修はそれをひとまず脇に置く。

「何か御用でしょうか?」

「何か御用でしょうかぁー?」

 修の言葉に、ぷるぷると肩を震わせる。

「おま、ワシが死ぬかもしれんという恐怖に耐えておるというに面会もなしかっ!」

 ぼう、と吐息が発火する。それを見て「感情が昂ぶると燃えるのかぁー……」という、どうでもいい感想を抱いた。

「ええっと……不調が現れなければそのまま経過観察なんですけど」

「キサマはそれでもワシのだんな候補か!」

「あ、それまだ引きずってるんですか」

「あったりまえじゃあ!」

 腕を組んで、ふんす、と鼻を鳴らす。

「……まぁ、ぶっちゃけぬし(・・)のこと怖いから、ワシとしても、もう、どうでもいがの」

「あ、はい」

 それはそれで助かるなぁ、と気楽に考える。

「で、ぬしはなんじゃ、ワシのこと放置して女と乳繰り合っとんのか」

「乳繰り合ってないです」

 もちろん、説得力がないことは理解していた。

「ちょっと面倒な事になりまして、その相談をしてたんです」

「はんっ」

 鼻で笑われる。

「ディビットに取り込まれそうじゃから、化け物(カタリナ)と結託して茶番を演じようという話じゃろ。どうせ」

 フランシスカは部屋のベッドに縛り付けられているような状態で、詳しく話を聞いていないはずだ。なのにこの洞察力、さすがと言うほかない。

「負ければ全部うまくいくなど、いやはや、なんともおめでたい頭をしておる……」

「はぁ」

「ワシにぴったりの男を紹介してくれるならば、この次元の魔女、"ヴァシアス火山の暴君(ドレイク)"フランシスカの知恵を授けてやらんこともない」

「あ、じゃぁアレックスで」

「かーっ!」

 目を剥いて炎を吐く。

「あんな硬いだけのアホじゃろ! アホ! もうアホすぎてどこかの詐欺師に騙される未来しか見えんわ! ぬしはそうまでしてワシを破滅させたいかっ!」

「あ、いや、そんなわけありませんって……俺は、嫌いな相手やどうでもいい相手ほど幸せになってもらいたいって思ってるくらいですから」

「……ぬし、実はどっかの神官か僧侶というオチではあるまいな? それも、竜あたりを邪悪と見る宗教の……」

 嫌いな相手でも幸せになって欲しいだなどと、偽善者か聖人君子ぐらいしか口にできないだろう。思わずフランシスカは問いかけた。

「いえ、遠くで幸せになってもらったほうが、こっちに来なくていいじゃないですか。そういう手合いって、自分が不幸だから回りの足を引っ張るわけで」

「なるほど。それもそうじゃな」

 実に合理的だと相槌を打ち、

「――ワシが嫌いと申すかっ!」

 そしてくわっと目を見開いて怒鳴る。

「え、えぇー……」

 そっちに飛んじゃったかー、と。

「いや、そもそも、嫌いだったらこんなことも言いませんから……適当に相槌打ってお茶を濁しますよ」

 こちらに来てから学者だの僧侶だの暗殺者だのと、おかしな勘違いしかされていない。もういい加減にしてくれという気持ちを込めて、深く深くため息をついた。

「っていうか、なんでわざわざ自分から敵を増やさなきゃならないんですか……」

「むぅ……それもそうか、それはすまんことをしたな……」

 さすがに修の気持ちが伝わったらしい。ようやく誤解が解けたように、フランシスカは申し訳なさそうに声のトーンを落とす。

「詫びに少々、知恵を授けてやろう」

 部屋までエスコートせい、フランシスカはそう言ってシーツを翻した。

「"ヴァシアス火山の暴君(ドレイク)"が知恵じゃ……まぁ、化け物(カタリナ)よりは若いかもしれんが、それでも聞いておいて損はないぞ? 少なくとも、引き篭もりのあれ(・・)よりは長く、人の世(まつりごと)に触れておるでな」



「あれ、カタリナさん?」

 案内させられたフランシスカのゲストルームにいた先客に、なんでここに、と問いかける。

「わる、だくみ」

 人差し指で唇を押さえ、しー、と。ソファーに座ったカタリナはいたずらっぽく微笑んだ。

「……トイレじゃなかったんですか?」

 まるでわざわざ待っていたみたいじゃないですか、と。修はじとりと睨む。

「はて? 最近物覚えがのぉー……」

 フランシスカはとぼけたようにあさってのほうを向いた。

「まぁ男なら細かいことは気にするでない。適当に座れ。ただ、ベッドは譲れんがな?」

「……尻尾が邪魔ですもんね」

 言いたいことは多々あるが、いちいち聞いていては話が進まない。修は睨んだまま、フランシスカにそう返した。

「ついでに翼もな」

 棘尾を揺らして答える。

「となり、あい、てる」

「あ、どうも」

 カタリナが横に少しずれ、修はそこに出来たスペースに腰を下ろした。

 フランシスカもさっさとベッドの上に乗ると、ぺたんとあひる座りをする。尻尾の関係上前傾姿勢ぎみになり両手を着いているせいか、まるでイヌやネコが"お座り"をしているようにも見えた。

「さて……ぬしはどうする気じゃ」

「え?」

「あの、賢しいと思っておる女の策に乗るつもりか?」

「……どっちがいいんでしょうかね?」

「なさけないのぉ」

 とはいえ、こちらの常識はアレクシアやヘンリエッタ、そしてカタリナ頼りだったのだ。今ここでどうするかなど決められるほど修はこの世界に溶け込んでいるわけではない。

「ぬしはどうしたい?」

「帰りたいです」

「ふむ」

「これを大前提として……」

「して?」

「返せる恩は、返したい」

 特にアレクシアからは、大きな恩を受けている。彼女が通したい意地があるなら、その手伝いくらいはしてやりたいと思っていた。

「なるほど」

 フランシスカは数度うなづく。

「では勝つがいい」

 威厳を現すように、ゆっくりと大きな翼を広げた。

「負けて手に入れたものなどすぐに消えてしまう泡沫よ」

「……勝って、どうすればいいんですか?」

「そんなもの、自分で考えい!」

「えぇー……」

 まさかの突き放しであった。

「どちら、に、しろ、ヘンリエッタ、に、負けるのは、悪手……」

「それは、どういう?」

「体が、弱いから。他の(ひと)、来ちゃう」

「それがディビットの息がかかっている者であると、なんとも容易く想像できることよな」

 言ってしまえば、次の世代に繋ぐことこそが婚姻である。それが出来ないのであれば、他の相手を用意するというのも当たり前の話だ。であれば、ディビットは小さな"おせっかい"を焼くだけでいい。

「強い一匹のオスが複数のメスを囲うのは、なに、当然の事じゃ。それは人も竜も変わらん真理である」

「だから、わる、だくみ」

 その言葉が気に入ったかのように、カタリナは鼻息を荒くしながらこぶしを作った。



    ○



 ヴァシアス火山の影からようやく朝陽が覗く。

「昨夜は、しっかりと休めまして?」

 考えるのに邪魔にならないよう着飾りはしない。ゆったりとした白いワンピースを着て、ヘンリエッタはそう問いかけた。

「ええ、まぁ……」

「休めずとも、手加減はいたしませんが」

「……でしょうね」

 修は気を引き締めるようにネクタイを直す。

「まぁ、負ける気はないです」

「あら、それはまた……」

 手厳しい、と。

 口にするより早く、ヘンリエッタは薄く笑う。

「……ディビット様。立会人の件、引き受けてくださいましてありがとうございます」

「なに、気にするな」

 数名のメイドを引き連れたディビットは答えた。

「主人から愛する男を奪う、なんとも歌劇じみて面白い話か! その大一番に立ち会えるなど、逆に光栄の極み!」

 呵呵と笑い、

「――この私闘(フェーデ)! この俺、ディビット・シャールド・ド・フォーブリッジが立ち会う! 天と地と人を統べる三界の神よ! ご照覧あれ! そして正しき決着をつけることを願う! そしてフォーブリッジの名において、俺はこの決着に異を唱えんことを誓う!」

 ディビットは高らかに宣言した。

「我が名は"従騎士"ヘンリエッタ・ハーブ! 主人アレクサンドラ・アンドリューに対して一人の男を賭けてこの私闘(フェーデ)を挑む者! この戦いに全能を持って挑むことをここに誓う!」

 ついでヘンリエッタが口上を上げて、

「フォトプロスは誉れ高き"花の騎士団"所属、"薔薇騎士"アレクサンドラ・アンドリュー! この一戦にボクの代理人として、佐村修を立てる! 天と地と人を統べる三界の神に誓い、この戦いの決着に異を唱えないことを誓う!」

 アレクシアがそれに応えた。

「代理人、佐村修。私はこの戦いにおいて、スポーツマ……天地神明に誓い、正々堂々、全力を持って戦い抜くことを誓います」

 どこか大会の選手宣誓のような声のトーンで、修も宣誓を上げた。

「では此度の私闘(フェーデ)、そのルールをこの俺! ディビット・シャールド・ド・フォーブリッジが説明する!」

 ぱちん、と指を鳴らす。

 それを合図にメイドたちが次々に動き出し、いくつかの書類の束、やや大きな砂時計、ロープ……様々な道具をディビットの前に並べ始めた。

「種目は算術だが、しかし俺は情けなくも算に弱い。故に、これからお互いに問題を出し合ってもらう」

 メイドから渡された一枚の金貨を指に乗せ、ぴん、と跳ね上げた。

「ルールはサドンデスと言えば、サムライにも伝わるか? 相手が間違え、そして自分が正解すれば勝者となる――」

「あ、はい。大丈夫です」

「では、先手を決める運命のコインだ……表か? 裏か?」

 弾かれたコインを左手の甲の上に乗せるようにしてキャッチしたものを、両者の間に突き出した。

「じゃぁ、俺が表でも構いませんか?」

「……ええ、裏でよろしくてよ」

 少しだけ考えて、ヘンリエッタは選択した。

「――表だ。先手はサムライとする」

 ディビットは砂時計をひっくり返す。

「この砂時計はおよそ三分である。砂が尽きるまでに問題を一つ考え、問いかけよ」

「……回答時間は?」

「同じ砂時計をいくつか用意してある」

「わかりました」

 問題自体は想定しているものがいくつか頭の中にある。時間は気にしなくてもいいだろう。修はあたりを見回しながら考えるふりをした。

(負ける気はないけど……)

 さっくり勝つなら、かの有名な「フェルマーの最終定理」を証明させればいい。証明だけに三日もかかった難問である。

(あんまり難しいとこっちも説明するのが面倒なんだよなぁ)

 ただし同時に、修の提示した解が正しいということを修も証明しなければならないのだ。

「……じゃぁ、まずは小手調べで」

 修は屋敷を指差した。

「屋敷の高さを、屋敷に直接触れずに測ってください。あ、どうしてその解に至ったかを論理的に説明するのも一緒に」



 ヘンリエッタはしばし瞑目し、

「なるほど。初手はわりと簡単な問題ですわね」

 アレクシアが「簡単かなぁ?」と首を傾げる。

「……あら、指矩(さしがね)がありませんわ」

「それはなんだ?」

「垂直を図ることのできる、大工道具なのですが」

 こう、このような形の……と言いながら指先でL字を作る。

「ふむ」

 ディビットは少し考え、

「では大工のところへ取りに行かせるが……」

「いえ、わざわざお手を煩わせる必要はございません」

 昨晩アレクシアに投げつけたものとは別の、白いレースのハンカチを取り出す。ヘンリエッタは正方形のそれを斜めに折りたたんで三角形を作った。

「代わりに、人を」

「よかろう」

 おい、と声を上げて一人のメイドをヘンリエッタのそばにやる。

「紐を、先端を結んで(おもり)にしたものをこう、垂直が分かるように持ち上げて……そう、そのまま私についてきなさい」

 真っ直ぐ落として垂直が分かるようにしたものを、ヘンリエッタの視線のあたりにくるように掲げさせて、ヘンリエッタは三角に折ったハンカチを覗くように――

「あ、もういいです」

 修はそこで止めた。

「あら、よろしいんですの?」

「ええ、まぁ……次はどうせ」

「ええ、屋敷までの距離を測らせます」

「完璧じゃないですか!」

 ヘンリエッタが用いたのは三平方の定理の、辺の比が一:一:√二である直角三角形を利用した簡単な高さの求め方である。

(すごいな、江戸時代(十六世紀)の本にある方法だよ)

 やや雑ではあるものの、塵劫記(じんこうき)と呼ばれる数学書にもこのような形で高さを計測する方法が載っていたのだ。

 修は思わず拍手すら送り、手放しで賞賛する。

「あら、では負けてくださっても構いませんわよ?」

「あ、それはちょっと」

「あら、ふふ……」

 ヘンリエッタは小さく笑いながら、砂時計を止めた。

「……なるほどわからん」

 ディビットは首をかしげてそう口にした。

「アレクシア嬢よ。あれは、どういうことか分かるか?」

「ボクもわかんないです……カタリナは?」

「……あん、まり」

「カタリナもかぁー……マリーは?」

「おお、そういえば我が自慢の占い師は彼と同郷であったな!」

 その声に、外野の視線が一斉に茉莉に向けられる。

「いやですねー、私が分かるわけないじゃないですかー」

 悪びれもせずにけらけらと笑う。

「修さん、それって何年生ぐらいで習うんです?」

「三平方の定理は中三だね。私立だと二年のところもあるらしいけど」

「じゃ、ずっと先ですねー」

 茉莉が言うと、

「ふむ……やはり学問はサムライに一日の長があるか……」

 納得したようにディビットは頷いた。

「ともあれ勝ち星が一つ、ヘンリエッタ嬢に与えられた……後がないぞ、サムライよ?」

 勝とうが負けようが、彼にはどうでもいい事なのだろう。盛り上げるように笑いながら宣言する。



「さぁ、次はヘンリエッタ嬢の番だ!」

「ええ、では……」

 きょろきょろとあたりを見回し、

「では、あの木からできるだけ大きな角材を取り出してくださいな」

 庭に植えられた木を指差すと、ディビットがぎょっとする。

「あっ、いえ! 実際に切るわけではなく!」

 慌てて、

「どれほどの角材が取れるかを算で求めよ、ということなのです!」

「あ、ああ……なるほど、驚いたぞ」

 庭の植木は景観のためにでもあるが、同時にいざと言うときの建材や燃料にもなる大事な資源だ。いくらなんでもそうぽんぽんと気軽に切っていいものではない。

「しかしそれは……算術で求められるものなのか? いや、俺は大工でないから、詳しいことは知らんが」

「私も知りませんわ。ただ、大工は丸太の太さから指矩(さしがね)で角材の大きさを出すもの。しかし切り倒さねば角材の大きさを決められぬなど……はたして、どれほどの無駄が出ることか」

「つまり、できるということか?」

「ええ。この世の神秘を数で解き明かす魔術こそが算術なれば……」

 ヘンリエッタは挑発するような笑みを修に向けた。

「ふふ……きっと解いてくださるだろうと期待している自分と、きっと解いてくださらないだろうと思う自分がいるのです。実に不思議な気分ですわ」

 砂時計をひっくり返した。

「さ、修様。私にあなたの知識を見せてくださいまし?」

「あはは……」

 なんと答えればいいのかと、修は難しい顔をして笑う。

「指矩がないから言ってるでしょう?」

「ええ、もちろん」

「ズルいなぁ……ま、とりあえず人を貸してください。俺、この国の文字はまだ読めないので……幹の太さを、巻尺で測ってもらえればそれでいいです。あ、長さも出しますか?」

 ヘンリエッタは「結構ですわ」と首を横に振った。

「じゃぁサイズだけか……」

 面倒くさい計算になる、と。数日前に暇つぶしで作った計算尺を取り出す。

「ぬぅ! あれはまさか!」

「知ってるの赤毛!」

「あれは計算が早くなる兄弟の呪具!」

「違う」

 ある漫画を思い出しながら「どんなノリだよ……」と苦笑する。

「……マリー、あれなぁに?」

 アレックスが役に立たないと気付いて、アレクシアはすぐさま茉莉に問いかけた。

「わかんないです」

 無造作にタロットを一枚引いて、

悪魔(デビル)

「かがくチートっ!」

「だから違……あれ、違わない……?」

 数学は科学の一分野なので広義的には合っていた。

「……計算、棒?」

 そのやりとりを無視するように、カタリナが口を開く。

「ああ、いえ。計算尺っていう、まぁちょっと昔まで使われてた計算機の一つですよ」

「昔って、平成の最初ころですか?」

「……いや、まぁ、昭和ごろ」

 八十年ごろに多くのメーカーが生産を中止したため、確かに昭和の産物である。

 ただ、特殊計算尺と呼ばれる様々な分野のエンジニア向け製品はいまだ作られているので、完全に過去の遺物ではない……のだが、純粋に平成生まれの茉莉から「昭和は大昔」と言われたような気になってしまい、修はちょっとだけショックを受けてしまった。

「暗算、得意、なのに?」

「いや、苦手ですよ?」

「え?」

「えっ?」

 カタリナとの認識の齟齬に、修はちょっとだけ戸惑いを隠せない。

「……さすがに俺、三桁以上の掛け算割り算とかちょっと」

 暗算じゃ時間がかかる、と言いかけたところで、

「三桁なんて誰だって無理だよっ!?」

 アレクシアに根本から否定されてしまう。

「……あ、うん、無理だね?」

 修はまるで吊るし上げを食らっているような気分になってしまった。

「ところでサムライよ、それを使えば三桁の掛け算を容易く行えるようになるのか?」

「ええ、まぁ、慣れれば」

 計算尺は乗除算の結果を概数としてイメージで出す道具である。イメージしやすくなれば当然だが計算がやりやすいので、当たり前と言えば当たり前である。

「ふむ……それ、言い値で買おうか」

 こちらの世界の一般的な計算機は、ネイピアの計算棒にも似た九本の棒である。慣れれば三桁の掛け算が楽にできるというだけではなく、その本数が三本まで減るのだ。

 少なくとも真似た商品が出回るまではちょっとした財になる。

「あ、いえ。申し訳ないですけどこれは売れません」

「む、秘中の秘であるか……ならば仕方ない。気が変わったのなら言うといい」

「ええ、まぁ、はい」

 気が変わることはないだろうけど、と心の中で付け加えた。

(だって、実際に売れたしねぇ)

 計算尺といえば科学者の代名詞として上げられていた時期すらあるのだ。白衣の胸ポケットにそっと忍ばせていた博士がいったいどれほどいたことかと考えていると、

「幹の太さ、測り終えました」

 と、髪を結い上げた真面目そうなメイドから声がかかる。

「九一.四四センチです」

「あら、キリのいい数字ですわね。運がよろしいことで」

 修にはとうていそう聞こえない。

「……あー、三フィート?」

 頭の中でざっくりとフィート換算して問い返すと、メイドはいぶかしげな表情を浮かべながら「ええ」と返した。

「どうも自分の国の単位に変換されるみたいで」

「あれ、ボク、そういうの大丈夫なようにしたはずなんだけど?」

 なんと便利な話だろう。思わずアレクシアの顔を見て、

「あー……ちょっと前に、"魔獣殺し"? とかでジェニファーさんに解呪されて……で、カタリナさんから改めて」

「あー、カタリナのはちょっと古いからねぇー」

「そんな、に、古く、ない、もん……」

 カタリナが口を尖らせた。

(まぁ、長さの単位がフィートと一緒でよかったな)

 ダメなら尺換算なども試すだけだったが。

「じゃぁ説明しますけど……図式化は要ります?」

「いえ、結構ですわ」

「じゃあ……丸太から角材を取り出すということは、円から正方形を取り出すものと一緒だと定義します」

「はい」

「円は数学上、いち平面状で中心から等距離に有る点の軌跡です。で、円周の長さが分かれば円周率から……あー、半径に対する円周の比率ですね。それで直径を求められます」

 既に数名が首をかしげている。

「円周の長さが三フィートの円の直径はおよそ……えー……〇.九五五四フィートですね」

 するすると計算尺を左右に動かしながら解を導き出す。

「……細かいですのね」

「一応、三.一四で計算しましたから。概数でよければ三で計算したんですけど」

「あれ、修さんゆとり教育世代です?」

「……それ迷信」

「へー」

「ともかく、直径が分かればあとはこっちのものです。もっとも大きい正方形を出すということは、対角線が直径と等しければいいんで……」

 テレビの画面サイズならこのままインチ換算すればいいのになぁ、などと考える。

「で、正方形の一辺はさっきヘティさんがハンカチを半分に折って作った直角三角形の、辺の比率で出せばいいので……」

 あとは直径を√二で割れば一辺の長さが出る。修は「ひとよひとよにひとみごろ……」と呟きながら何度も計算尺をスライドさせた。

「およそ〇.六七五二フィート、ざっくり換算して八インチの角材が出せます。ま、誤差はありますけどね」

「……まったく分からんが、算で本当に出せるのだなぁ」

 ディビットが思わず感嘆の声を上げた。

「翻訳されてるはずなのに、異次元の言葉に聞こえるよ。不思議だね」

「結構分かりやすくしたつもりなんだけどな……」

 詳しい説明を求められたら面倒だぞ、と。修は半分以上落ちた砂時計に視線をやる。

「……なるほど」

 さてどうしてくれようかと舌なめずりするような表情を浮かべながら、ヘンリエッタは口を開いた。

「ここで、分からないことがある、と言えば、私の勝ちになりそうですわね」

「……ズルいなぁ」

「ズルい? そういう勝負でしょうに」

 そんな事を言いながらも砂時計を逆さまにして止める。

「ええ、ですが卑怯なのは好みませんわ」

「……正々堂々としてくれて助かったよ」

「そのほうが気持ちよくあなたを迎えられるでしょう?」

 ふふ、と小さく笑う。

「さ、次をお出しになって?」

 思わず「長くなりそうだ……」と呟いた。

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