#18
「ふー……ぅんっ」
アレクシアが大きく伸びをした。
「疲れたねぇ……」
ゲオルギスがコネを伝っての"異界への扉"を研究しているという相手を紹介するという確約を得てゲオルギスを見送ってからすぐ、先ほどまでしっかりと背筋を伸ばしていたアレクシアは、だらしなくソファーに身体を預けて緊張を緩めた。
「疲れたというより、磨り減りましたわ……」
そもそも体力に劣るヘンリエッタは、アイスクリームに使った砂糖の時点ですでに青色吐息であった。
「もう、砂糖は当分結構ですわ」
「赤カブから砂糖が作れるだなんてねぇー」
正確には、修が使ったものは赤カブではなくレッドビートというアカザ科の野菜でありカブの近縁種ではない。単純に、見た目がカブとそっくりなだけである。
「ええ……今までも、多少は甘いものだとは思っていましたが」
その甘さの成分がさとうきびと同じものだと分かるのには十八世紀中期まで待つ必要がある。そこから甜菜用の砂糖工場が作られたのはさらに五十年後、十九世紀の話だった。
「俺のじいさんが、戦後に甘いものが食いたくなったときがあったらしくてさ。でも、物がないから。そうやって作ったって聞いたことがあるんだ」
味と効率さえ考えなければ、ビートを刻んでお湯で砂糖を煮出し、木灰で不純物を沈殿さて上澄みを煮詰めればビートシロップを作ることができる。
あとはこのシロップ内に溶けている砂糖を結晶化させればいいので、冷やすか、さらに煮詰めるかしてシロップを飽和状態にする。今回は結晶化まで待つ暇はなかったので、今回はそのまま煮詰めて濃くしたものを使った。
「まぁ、味とかそういうのを考えたら、砂糖用ビートのが望ましいんだけれど」
「なくてよかったよぉ……」
アレクシアの身体から、へなへなと力が抜けていく。
「……もう少しで帰れちゃうかもねぇー?」
このまま帰したくないとも思うが、騎士としての誓約に従い、アレクシアは引きとめることはしない。ただ、あざとく視線を送るのだけは忘れない。劇物とはいえ、隣に置いておけば損はないことを知ってしまったからだ。
「本当に。助かったよ」
修は知らないふりでそれを見なかったことにする。妹のような相手に胸を高鳴らせるような性癖ではないからだ。
「どちらにせよ、魔法陣の解析、だっけ? それの結果と……ゲオルギスさんが紹介してくれる、相手次第かな」
「そーだねぇー」
「どれくらいかかるかな……」
「うーん」
アレクシアがヘンリエッタに視線を送る。
「連絡手段にもよりけりですわ。正式なものであればゲオルギス様が私たちに紹介状を書いて、相手方にも書状を書き……今すぐに、ということであれば、ほうき便で一日。そこから相手方の都合などをしたためた書状が届くまで、さらに一日。相手方の都合によっては会談日がさらに数日、数ヵ月後という可能性も」
ですが、と区切る。
「おそらくはゲオルギウス様が芸術家だったころの縁でしょうし、さほど格式の高いところはないかと。平民であれば、修様の移動期間のほうに時間を取られてしまうでしょうね」
「そーだといいねぇー」
アレクシアが意味深な物言いをする。
○
――どさり、と。
「修様に、ゲオルギウス様からのお届けものです」
その日の夕方に届けられ、ヘンリエッタが修の前に積み上げたものは質のいい羊皮紙の束だ。それに描かれていたのは、修が見たことのない筆記体のローマ字にも似た文字と、複雑かつ緻密な歯車の図面だった。
「先ほどジェニファー様がおいでになられまして……お約束された、研究の、資料だそうですわ」
屋敷にいる全員が集まっていたリビングに、それは堂々と積み上げられた。
「うわぁー……頭いたくなっちゃうー……」
「と、言いますか。レクシーが見てはいけないものでは?」
「まぁー、そーだけど」
修をチラリと見て、
「読めないでしょ」
「読めないなぁ」
「カタリナー」
「……ダメ、でしょ?」
「ですわね。カタリナ様は立場上」
「あ、そっか」
「では、俺が」
「あなたは余計にダメでしょう」
「占星術師は口が硬いんだぞ!?」
「特に家柄もよろしいわけではございませんでしょう?」
「むぅ……」
家を持ち出されてはぐうの音もでないと、アレックスは黙り込んでしまった。
「……夜も近いし、星でも視てこよう」
「ええ、それがよろしいかと」
物事には何事も専門家というものがおりますので、と。
「でぇー……誰が読む?」
「私ですと越権ですわよ?」
「私だと、角、立っちゃう、し」
「まぁーそーだよねぇー」
ボクしかいないかぁー、と。
ひどく面倒くさそうに修と距離を縮めるように詰め寄って、
「こーいうの、読んだことはある?」
「いわゆる、論文、だよね? ……まぁ、大学で少しは」
修のゼミでは研究ばかりで卒論はなかったが、論文は社会に出て読む機会があるだろうと、多少なり基本を抑えさせられた経験があった。
「ただ、羊皮紙は初めてかなぁ」
「えっ」
誰もがその言葉に声を上げた。
「……あっ、俺の国は羊皮紙よりも、紙のほうがメジャーなんだ。日本、すごく湿気が多いから」
羊皮紙は元が動物の皮膚を加工して乾燥させたものなので、水につけると、ぷるぷるになってゴムのように伸びるのだ。この特性のせいで、保存するさいは湿気のせいでぐにゃぐにゃに波打ったり反ったりしてしまう。このため湿気の多い地域で羊皮紙はあまり使われないのである。
「あ、あー、なぁーんだ」
びっくりしたなぁー、もう、と。アレクシアが少しばかり引きつった笑みを浮かべた。
「兄弟とあろうモノが紙に文字を書いたことがないなどと思ってしまったじゃないか」
「びっくり、した……」
文字を書けるということは文化人としての最低限の教養である。
今でこそ日本は読み書きができるということを当たり前のように感じているが、その文字の練習をするのに紙と鉛筆を使ったことを覚えているだろうか? 読み書きができるというのは、そうした消耗品を次々と用意できるほどに裕福だという証明なのだ。
「そーいえば、おさむ、かなりすごいの持ってたもんねぇー……」
思い出して、表情を引きつらせる。
「あ、計算するなら書くものが……」
立ち上がって手帳をとりに行こうとすると、
「ああ、別にいいよ。ヘティー」
「ええ。ご用意させていただきますわ」
「ねっ?」
アレクシアは、さり気なくそれを阻止した。
修にとっては百円程度だが、アレクシアたちにとってはとんでもない価値になってしまうペンの隣で、頭の痛くなるような研究資料を読みたくはないからだ。
「ああ、うん。ありがとう」
あと、と。
「できれば、計算機とかあるといいかな。さすがに、数が多いと計算が面倒くさいから」
「ヘティ、うちって計算棒あったっけぇー?」
「ええ、ございますわ。レクシーがちっとも使わないので、すっかり埃をかぶっていますが」
「あ、あはは……」
アレクシアはバツが悪そうに笑う。
「……計算棒?」
今度は修が首をかしげる番だった。
九本の棒に、この国の数字と思われるものが刻まれている。
「ネイピアの計算棒ー!」
ヘンリエッタから差し出された思わぬ伏兵に、修は思わず頭を抱えた。
「えっ、どうしたの?」
「……いや、大丈夫。まさかこれだとは思わなかったから」
ネイピアの計算棒。数字と、それに数字をかけた答えが一の位と十の位、それぞれ分けて斜めの線で区切って記されている。
ようは九九の表だ。元になる数字の棒を選び、それにかける数字の段に書かれた数字を足し算していくことで、簡単に掛け算を行うというものだ。
言ってしまえば、掛け算専用の計算道具である。
「あ、あれぇー?」
これが普通であるアレクシアは、
「違うの?」
と首をかしげる。
「えーっと……俺が思ってたのは、こう、ボールっていうか、おはじきみたいなのを使う……」
珠を使ったそろばんは、そのシンプルさから紀元前まで遡るような歴史の古い歴史を持つものだ。
「……?」
ないらしい。
「まさか……」
そして修は、ひとつの仮説を立てる。
「……六十三割る九は?」
「え? えー……九たす、九たす……」
「やっぱりかぁー!」
「えっ、なになに?」
計算がほぼ足し算の延長という文化は、実はさほど珍しいわけではない。ドイツなどでは「客の出した金額に達するには、買い物の合計金額にいくらのおつりを足せばいいのか」という、足していく計算方法を取っていく。
桁が増えればより計算は面倒になるため、この考え方もまた暗算を遅くする一つの要因である。
(そりゃあ、計算棒だけで済むわけだ……)
彼女達は割り算をするとき、計算棒を使って「逆引き」をするということだ。そろばんでの乗除算を全て足し算の方法で行うのならば面倒だが、逆引きなら慣れてしまえばあっという間というわけである。
「なにか、問題でもございました?」
「いや、大丈夫……」
計算棒なんてものは、ゼミでの雑学として教えられただけである。そろばんのような計算機に慣れた修からしてみれば、わざわざ計算棒を使うくらいなら手計算したほうが早いのだが……、
(鉛筆の登場は、十六世紀……)
手計算するならば「書いて、消せる」という性質をもった筆記具がないと、場合によっては余計に手間がかかってしまうため、鉛筆がないのは大きなマイナスなのだ。
そして鉛筆が発明されるには、鉱山で良質な黒鉛が発見される必要がある。
魔法があるとはいえこの世界の文化技術レベルは十五世紀程度なので、存在しないと考えたほうがいいだろう。
(まさかそろばんがないとは思わなかったなぁ)
もしかしたら、アレクシアたちの計算方法にぴったりと合致してしまった計算棒のせいで、数字を扱う商人のような人間でもないかぎり、そろばんが使われなくなってしまったのかもしれない。
「……あー、銅貨でもなんでもいいんだけれど。なにか、サイズの揃ってるものを何十枚か貸してくれないかな?」
仕方がないので、コインで代用することにした。
○
「……暗算したほうが速かったなぁ」
ほんの数十分ほどだけ即席そろばんに使っていたコインをテーブルのはじに積み上げて、修はそんなことを呟く。
「……ボクに聞かないでよぉ」
「いや、何も聞いてない」
「そーお……?」
ソファーにゆったりと身体を預ける。よほど疲れたのか、口から魂が出てしまっているかのようなだらけ具合だ。聞き違いまでしている。
「まほーじん、描かされるとは思わなかったよぉ……」
「予想はできてたけどね」
「できてたのっ!?」
「……魔法陣、数パターンはある、って言ったよね?」
「言ってたけどぉー……」
まさか描くとは思わなかった、と。
「別に、位置さえ分かってればゲオルギウスが勝手に描くのにぃー……」
「……こんな論文で間違いなくしっかり描けるんだったら、俺も別に計算して終わりだったんだけどな」
それは論文というより日記に近いものだったのだ。それでも歯車を作るさいの図面はしっかりしているのかと思えば、そのほとんどが「たて、よこ、ななめ」と言ったふうである。
「まさか三角関数使って角度を出すことから始めなきゃならないとか思いもしなかったよ」
角度の概念は紀元前から存在するものだ。修の世界では、暦法にもよく見られる三百六十という約数の多い数字を利用して定義されてきた。
「たて、よこ、ななめじゃダメなのぉー?」
「角度が一度違ったら、どれだけ大きくズレるか教えただろ?」
「ほとんど覚えてなぁーい……」
「おい」
が、この角度と言う概念、実は古い時代の設計などではさほど厳密に使用されてきたとは言いがたかったりする。なぜならほとんどはアレクシアの言うとおり「たて、よこ、ななめ」で済んでしまうからだ。
(まぁ、おかげで色々分かったけど……)
さほど利用されていないということは、数学的知識でもって物理学などを突き詰めたものではなく、職人の知恵と技と勘でもってだいたいの製品が作られてきたということである。
(……マンパワーがあっても、産業革命は遠そうだ)
魔法があれば工業用機械の動力も余裕なんだろうな、と修は考えていたが、これによってすっかり考えを改めてしまっていた。
「それにしても酷い論文だった」
「うーん、ボクにはわかんないけどねぇー……?」
ゲオルギスから渡された資料は、論文というよりただの日記だったのだ。
そして設計されていた歯車の、歯の間隔や角度がしっかりしているわけではなかったので、修はこれを求めるために三角関数を使ったのである。
「もういっそ、計算尺、作ろうかな……」
修がそう考えてしまうほどに、ずっと暗算を繰り返したのだった。
「けーさんじゃく?」
「割り算掛け算の答えをあっという間に出せる、定規に似た計算機だから、計算尺」
利用するのは対数――高校あたりで習うlogというヤツである。
計算尺はロケットの突入角度計算などにも使われたことのある由緒正しい計算機であり、使い方をざっくり説明すると「ゼロとAの位置を合わせると、Bの位置に答えであるCが出る」というものだ。
基本は乗除算のみだが、モノによっては加減算も可能なためそろばんよりもよっぽど計算能率が上昇する実に優れたものであったのだが、残念なことにある欠点と電卓の登場によって、完全に廃れてしまったのである。
「――すぐに作れちゃう?」
「今日一日あればね」
必要な対数計算をどれだけ正確にするかによるが、ざっくりと作って三、四時間程度だろう。二時間程度で対数を計算し、残り数時間で木材を加工するのである。
「売れたりしちゃう?」
「売らないよ?」
十七世紀初頭に対数が発見され、そこから数十年かけて計算尺が生み出された。こちらの世界では、実はオーバーテクノロジーだ。
「えー?」
「えー、って……」
「ボクのあたまがぱーにならないよーにしてくれるどーぐ、ほしいなぁー?」
「計算尺って、最後は自分の頭だぞ?」
計算尺で求められる答えは概数と言い、実は完全に正確な数値ではない。多少の誤差を含むという欠点があるのだ。歴代の計算尺マスターたちは最終的な誤差修正を、自分たちで暗算し求めていたのである。
「あ、じゃ、いいや」
少しくらい頭を使えよ……、と思わず突っ込みたくなってしまった。
これから何があるかも分からない。そういった理由もあったが、実際のところはヒマだったからというのが大きいだろう。
「……兄弟はなにか、異界の呪具でも作っているのか?」
「えっ」
結局のところ自分の暗算能力をフル回転させて計算したほうが手っ取り早いということに気付いてしまった修の、ぶつぶつと数式を呟きながら木の板にナイフで線と文字を刻むさまは、確かに知らない人間が見れば怪しい儀式にしか見えないだろう。
「いや、ちょっと計算尺を作ってるんだ」
「計算棒を?」
「計算尺、スライドルール」
「……なるほど、計算を早くするための呪具だな」
「違う」
確かにそんな風に思われても仕方のないことだ。
「呪具じゃなくて、道具。作り方さえ分かれば誰だって作れる……」
「呪具じゃないか」
「……もうそれでいいよ」
知らないものは自分の持っている知識に当てはめて理解する、アレックスの反応はなんら間違いではない。
説明が面倒くさくなった修は、もうそれで通してしまおうと決意した。
「それで、なにか用か?」
「ああ、そうだったそうだった」
よっこらせ、と修と対面のソファーに腰を落とす。
「なに、新たな占いの結果を伝えにな」
「……また女難だとか言うんじゃないだろうな?」
「はっはっは!」
アレックスは否定も肯定もせず呵呵大笑。
「ところで良い結果と悪い結果、そして分かりきった結果。どれから聞きたいか?」
どれからも聞きたくない、修は頭痛を抑えるようにため息をついた。
「上げて落とすのは嫌いだから、悪い結果から聞こう」
「ではまず、分かりきったことから告げよう」
「おい」
「女難の星は以前変わらず、三つ」
「おいっ!」
「運命ならば仕方なかろう? ……さて悪いことだが」
今度こそアレックスは顔をしかめる。
「水難」
「……それって」
「川か泉か、はたまた海か……さて、こればかりは俺にもよく分からん」
水難とは実に幅の広い災いである。
「天候は荒れることはほぼなかろうが、そうなると魔法の影響か、船の難破であろう」
修の世界ならばそれこそ風呂で溺死するのも水難だが、こちらの世界での水難と言えば船の難破や川の氾濫、そして、
「水の妖精はえてして惚れやすく、嫉妬深い。水辺にはただただ気をつけることだ」
妖精に見初められて、というパターンである。
「それは、どう、防げと……」
「俺はどうも親類に妖精の血を引くのがいるらしい。だからそうした妖精避けは専門外でなぁ……」
とはいえ、アレックスが妖精避けに引っかかるというわけではない。彼の気質が妖精避けの魔法とは相性が悪いというだけである。
主に知力的な意味で。
「まぁ、カタリナ様なら何とかしてくださるんじゃないか? カタリナ様の傍にいるだけでも避けて通るだろう。妖精種と比べても遜色ないぞ、あの人の魔力は」
「ああ、なるほど……」
宗教組織であるはずの教会が権力をさほど持てない程度には、カタリナの能力は突出しているのだ。魔法だとかさっぱり理解できない修にもお察しだろう。
「で、良い結果だが」
「だが?」
「明日ごろには手紙が届くだろう」
ヘンリエッタの語った正規手順を踏んだものよりは若干早い。早く帰れることに越した事はないので、正しくそれは良い結果だった。
「そりゃ、よかった」
「ああ、しかもまたお貴族様のようだ」
「……えっ」
「いやぁ、やはり兄弟はすごいなっ! 頼りのない無頼漢が、こうも次々と貴族と知り合えるなどめったにない!」
アレックスから「すごい、すごい」ともてはやされる中、
「は、はは……」
修はまたぞろ、難儀なことになりそうな予感がした。




