#01
皆様お久しぶりです。
異世界ほのぼの?ファンタジー、始まります。
それはおそらく、もっとも穏便な方法だったのだろう。ふとしたことで死ぬその瞬間に訪れる人生の転機として有名な話であり、現象だ。
ただし、本の中で。
「……えっ」
家を出たその瞬間に、見たことのないような町並みが目の前に広がっている。スーツ姿の彼を、中世ヨーロッパの映画で見るような服装をした、さまざまな髪色の人々が怪訝な顔をして見つめている。気分はまるで動物園に一匹はいる人気動物だ。
コンクリートが使われていない木造然とした町並みも、どこかそのような雰囲気だ。地面も、サイズがバラバラな石を組み合わせて敷き詰めた石畳である。ここが日本ならば、映画のセットかにしか見えない。
これがどこぞのテレビ局かなにかの、何も知らない視聴者を無慈悲に巻き込んだドッキリでなければ、いわゆるひとつの「異世界にトリップしてしまった」という事例になるのだろう。
「っと……」
なんだここは、という言葉を飲み込んで、彼はまず冷静に夢を疑った。古典的な頬をつねる識別法では「これは現実である」という結果が痛みと共に返ってくる。
「ははぁ……これは痛みを感じる夢か」
ではどうやって現実と空想を区別するのだ、思わずため息をついた。すると心配そうな顔をする一人の婦人――婦人というには少々いかついというか、野生的だが――が声をかけてきた。
「―――、―――?」
残念ながら、彼は婦人の喋る言語をまったく理解できなかった。そしてそれは、英語にも聞こえない。いったいここはどこだと困ったように首をかしげる。
「あー……あい、きゃん、のっと、すぴーく、いんぐりっしゅ。ぷりーず、じゃぱにーず」
その状況で英語を選択したのは、英語ならば通じるだろうと思ってのことである。
正直、彼は英語は苦手だ。特に発音などは一切の自信がない。だが、せめて日本語が少しでも分かる相手が出てきてくれればこの状況も好転するだろうと、彼は精一杯の英語を使った。
しかし、誰も彼もが困ったように肩をすくめる。残念ながら日本語ができる人間はここにいないらしく、そして彼のつたない英語が通じている様子もなかった。
「あー……あい、あむ、おさむ、さむら」
しかし彼に希望がなくなったわけではなかった。
言葉は通じなくとも、どうやら意図は通じている。困ったように肩をすくめるということは、つまりそういうことなのだ。
「あい、きゃん、のっと、すぴーく、いんぐりっしゅ。ぷいーず、じゃぱにーず」
自分の胸に左手を当てて、
「あい、あむ、おさむ、さむら」
そう何度も繰り返す。
昔、彼に英語を教えた教師は言った――言葉はパワーだ、魂だ。意図が通じるなら、あとは魂をこめてパワーをつけろ、と。
要するに言葉の力技、ごり押しだ。
同じ言葉を何度も繰り返すうちに、もしかしたらここは英語圏ではない場所なのかもしれないという疑念も生まれるが、しかし身振り手振りも含めれば、通じない場所などこの世に存在はしないハズだと信じて。
「あい、あむ、おさむ、さむら」
「――さむらい?」
おしい。
確かに彼は日本人だ。だから、外国人から見ればサムライかもしれない。じつに惜しい……そんなふうに思いながら、
「あい、あむ、お、さ、む。さ、む、ら」
今度こそ、とゆっくり喋った。
「オ、サ……ムライ?」
「ちがうっ」
さすがに力ずくのごり押しではここまでが限界なのか。
「ム、ム……ムライ?」
「村井さんだと全然苗字が……あー、もー。いいや、おーけー、さむらい。あいむ、さむらい」
「サムライッ!」
彼は妥協をする。日本人とサムライならばイコールで繋がるだろうという考えもあった。
「ジェニファー」
「じぇにふぁー?」
「ジェニファー」
婦人は自分の名前を告げたらしい、自分を指指しながら、何度も「ジェニファー」と教えてくれた。それは小さな一歩だが、現状を打破する大きな一歩だ。
言葉が通じなくとも、意思疎通はできる。軽い感動を覚えながら、彼はジェニファーの次のセリフに注意深く耳を傾ける。
「――――?」
ジェニファーは彼を指差して、一言。そして自分を指差して「ジェニファー」と言った。
「……あっ」
それはどう見ても、あなたの名前はと聞いているようにしか見えない。
「ま、マジかー……」
まさかサムライでいいと妥協したことがこんな形で帰ってくるなんて……彼は軽く頭を抱えてしまう。
そのときだ、
「はいはーい、どいてどいてー」
あきらかに、日本語が聞こえてきたのは。
「迷子の迷子の異邦人さんはどこかなー?」
ストロベリーブロンドを肩ほどで切りそろえた、笑みをたたえる小柄な少女だった。
それが二メートルほどにも及ぶ槍を担ぎ、まるで昨今のアニメか、いかがわしいゲームのような、ヘソを出したセパレート水着にも似た鎧を着ている。
最初から現実感を感じていなかった彼は、よりいっそう、これは何らかの企画か幻覚かと疑いを深めた。
「はーい、この場はこのボク、"薔薇騎士"アレクサドラ・アンドリューが預かった。集まってると邪魔になるから、散って散ってー」
彼女は日本語で宣言。そして両手を大きく振り、まるで野次馬を散らす警察のように「はい、散った散ったー」と、彼の周りに集まった人々を解散させる。
「――よしっ」
野次馬を全て解散させると、満足したように鼻を鳴らす。
そして向き直り、彼を舐めるように一瞥。「ふぅん……」と笑みを浮かべ、
「ボクの名前はアレクシア。"薔薇の騎士"アレクサンドラ・アンドリュー。親しい人はボクをレクシーと呼ぶ。キミの名前は?」
自分の小さな胸に手を当てながら、自己紹介を始めた。
「おさむ、おさむ、おさむ……うん、おさむ」
なじませるように、何度も彼の名前を舌の上で転がす。サムライだとかおさむらいさんだとかという、先ほどの婦人と似たような過ちを繰り返したりはしたものの、彼はようやく自分の名前を覚えてもらえたのだ。
「そうそう、佐村修。佐村が姓で、修が名前」
やはり言葉が通じるということは素晴らしいことだと、軽い感動すら覚える。
「本当に助かりましたよ、ええっと――アレクサンドラさん?」
「アレクサンドラって名前、長くて覚えづらいでしょ? ボクのことはアレクシアと呼んでくれていいよ。できればレクシーで。ボクも立場上、キミに敬語は使えないしね……フェアにいこう」
立場上、というのはどういうことなのだろうか。まぁ、その国の風習や慣例というものがあるのだろう。いや、そもそも現状が夢か幻覚でなければここは異国で、修は他国への密入国になってしまう。犯罪者に敬語を使ってはならないという習慣なのかもしれない。
「ああ、はい……」
とはいえ突然敬語をやめるというのはなかなか難しい。かといってタメ口では初対面に失礼だ。しかし日本語での丁寧語は厳密に意識していなければ、敬語と謙譲語とがかなり複雑に絡んでいるため、そのどちらも使わないような台詞回しはなかなか難しい。
「あはは、タメ口でいーよぉ?」
「あ、はい」
気を使わせてしまったかと恐縮する。
「で、えっと……逮捕っすかね?」
敬語ではないし丁寧語でもないが、自分を下に置いた喋り方は、修が中高と柔道部という体育会系だったからだ。
「そんな卑屈にならなくてもいいんだけど……だれを捕まえるの?」
「自分?」
「キミを? なんで?」
「えっと……密入国?」
「スパイでもなんでもなさそうなのに?」
「えっと……衛兵さん、ですよね?」
衛兵だと判断したのは、武装しているからだ。
いかにも人を傷つけられますよといったような、にび色のトゲトゲしい穂先を持った槍を持つアレクシアが、修にはイギリスの町に佇む衛兵か、そうでなければコスプレをした痴女にしか見えないからだ。
「え?」
アレクシアは眼を丸くして驚き、
「あっ、ちがうよ?」
しかし自分の格好を思い出したのか、両手を振って衛兵でないと否定する。
「ボクは、みてのとおり"花の騎士団"、"薔薇騎士"アレクサンドラ・アンドリュー」
みてのとおりと言いながら、鎧の胸元に掘り込まれている帯紅色の薔薇と小麦か稲のような植物、そして無数の細かい花が房になっている花を意匠化した紋章を、人差し指で軽くコンコンと叩く。
「衛兵じゃなくて、騎士。ここにいるのは、ほんとうにただの偶然」
「はぁ……」
いまいち理解がおよばないといったように、生返事を返す。
「んー……キミって、もしかしてこの国ははじめて?」
「その……そもそもここは?」
「あー、なるほどー」
これは面倒くさいことになりそうだ、と一人勝手にうなづく。
「この国にくるの、はじめて?」
「そもそも、ここがどこだかも」
「おさむはどこから来たの?」
「えっと、日本」
「にほん……にほん?」
腕を組んで首をひねる。
「……えっと、にほん、ってどっち?」
「えっ」
どっち、とは。つまり西か東かと聞いているのだろう。しかし、今この場所が分からないとそんなことを答えられるわけがない。
もっとも、EU付近なら中国のとなり、東側とでも言えばいいのだろうが、
「地図、ある?」
自国の場所が知られていないのはいささか寂しいものがあるなと思い、場所を教えてあげようと考えた。
「ないない」
「まぁ、それもそうか」
とはいえ、町の地図や国の地図ならともかく、世界地図なんて道案内に使えないものなどそうそう常備されているようなものではない。
予想はしていたが、さてどうするか、修はしばし頭をひねる。
「……携帯」
そして携帯電話の存在を思い出した。
「けーいたい?」
アレクシアが不思議そうな声を上げる。携帯を知らないことはないハズ――そうか、携帯電話という日本語を携帯と短縮して言うということを知らないのかと、ひとり勝手に納得した。
「ああ、うん、電話電話、携帯電話……会社に連絡入れてないな」
スーツの内側、ワイシャツの胸ポケットに手を入れる。すると、目の前のアレクシアが、びくりと体をこわばらせた。
「あ、銃じゃないよ」
武器を持っているくらいだ、こうやって銃が取り出されることがあるのだろう。うかつな事をしたなぁ、と軽く反省。
そして二つ折りの携帯電話を取り出し、インターネットに接続を――
「って、圏外かよ」
普段はまったく気にすることもないアンテナのマークが、圏外、という単語に置き換わっていた。
最近は地下でもアンテナが立つから、つまりこの付近にはこの携帯が利用できる基地局がない――つまり、
「――……マジで外国?」
まさか、そんな。
夢でもなく幻覚でもなく、ましてやドッキリでここまでするはずもなく……体温が急激に下がっていき、それなのに汗がぶわりとふき出すような感覚が走る。
「どうしたの? ……ね、大丈夫?」
「大丈夫……うん、大丈夫」
夢か幻覚か、そうでなければ拉致かドッキリか。
意味が分からない。
ここはどこだ。
同じ言葉が、修の頭を駆け巡る。
「――……うん。ちょっと、場所かえよっか?」
ああ、これが任意同行か、と。修は現実感のない現状で、まるで自分が無関係であるかのようなあいまいな感想を抱いた。
○
日本ならばほんの少し上等な大手グループのビジネスホテルクラスだ。連行されるがごとく腕を引かれて連れてこられたのは、小奇麗だが小さなロビー。しかし似合わない無骨な木製の椅子とテーブル。
「おちついた?」
不似合いなその椅子同士を寄せ合って、二人並んで部屋のすみに座っている。
人は狭い部屋だと圧迫感を感じるが、狭くないと不安感を覚えるのだ。部屋をとらずにここにしたのは、いつでも駆け出してしまえるような逃げ道があり、かつ、ロビーのすみっこという擬似的に狭く目立たないように感じさせる場所からくる、安心感のためであった。
「……はい」
「よかったぁー」
出合って数時間も経っていないというのに、アレクシアの言葉はまるで十年来の幼馴染にでも声をかけるかのように馴れ馴れしかった。が、この場においてはほぼ味方がいないといえる修にとっては、それが非常にありがたいものだった。
「それじゃぁ、改めまして――ボクの名前はアレクシア。"薔薇騎士"アレクサンドラ・アンドリュー。"花の騎士団"所属、アンドリュー家の八女で……いちおう、すえのすえだけど、貴族」
「佐村修。ええっと……佐村が姓で、修が名前。日本に住んでいて、今は事務方の仕事を。今朝、仕事に行くために家から出たら、あそこにいた」
そして修のいた場所は広場のようなところだった。石畳と噴水と、そして見知らぬ建物がいくつか。しかし修の後ろに建物やドアのようなものは一切なく、そして自分がくぐってきたドアはまるで煙のように消えてしまっていた。
「まるで魔法みたいだねー……どこからきたか、説明できたりする?」
「ああ」
アレクシアのおかげで落ち着きを取り戻した修は、今度は携帯電話ではなく手帳を取り出す。デジタル機器がダメならばアナログ用品である。
「……それ、なんの本?」
革張りのそれを見たアレクシアがやや険しい顔をして言いとがめる。
「本じゃないよ、手帳」
日本の文房具はガラパゴスのような進化を遂げているとどこかで聞いたことのある修は、この国には革張りの手帳なんてものは販売されていないのかと苦笑しつつ、手帳の中身を見せるように開きながらボールペンを握った。
「ええと、おおざっぱに日本はこんな形をしていて……ここにロシアや中国がある大陸で、こっちはアメリカの、ブラジルはこうで……ここに島があって……」
目的地や近所の地図ならなじみもあるだろうが、こうやって世界地図を描くなんて、もはや学生時代以来だ。だがそれでも、さんざん世界史の教師から叩き込まれた簡易世界地図を書く手は止まらない。
かなりうろ覚えのはずなのに意外と描けるんだなと苦笑していると、
「……これ、どこの地図?」
アレクシアが、困ったように声を上げるのだ。
「ええっと……日本、アメリカ、フランス、イギリス、ドイツ、イタリア、カナダ。聞き覚えは?」
「うーん……?」
日本を含めたいわゆる先進七ヶ国と呼ばれるG7を上げたが、アレクシアの反応は芳しくない。
「じゃぁ、イラク、イラン、サウジアラビア、アラブ首長国連邦」
ならば、と挙げたのは石油産出国だ。現代社会で石油に関わらず生きるのはそうとう難しいし、教育を受けているのであれば少なくとも一つは分かるだろう、という思惑があった。
が、
「ごめん、ちょっとよく分からない」
「マジか……!?」
難しそうな顔をして首をふるアレクシアを見て、一体どうなっているのだと戦慄する。
「ねぇ、おさむ。逆にボクから聞くんだけれど……オズワルド・フォトプロス・ド・マーシャル、って名前に聞き覚えは?」
「……ないな」
どこかの国の首長だろうかと首をかしげる。しかしオズワルドという名前の有名人にはまったく心当たりがなかった。
「じゃぁ、七年戦争」
「ええっと……イギリスとロシアとフランスの?」
「うーん」
アレクシアは難しそうな顔をして何度も首をかしげた。
「……おさむ、今ボクと何語で話してるか分かる?」
「え? 日本語……だよな?」
一体何を聞いているのだ、と。
まるで、一体私たちは何語を話しているのでしょう、というファンタジーにありがちなメタファーなギャグを問いかけているようだった。
「うんと……気付いてないとは思わなかったんだけれど……」
ボク、キミの言葉は、喋れないよ? と。
「えっ」
でも、こうして……と言いかけたところで、はたと思い出す。
ジェニファーと名乗ったあの女性は、そしてあの場所にいた人々は、アレクシアの言葉で解散していたではないか。
その時の彼は、はたしてアレクシアの言葉が理解できなかったということがあっただろうか? 最初から日本語で話している、通じていると、安心したのではなかったか――?
「おさむは……えっと、かがくと魔法、どっちの言葉に馴染みがある?」
「……科学」
何を聞いているのだ、と。普段の修ならば鼻で笑っただろう。しかし、だが、今まさにその荒唐無稽な予感が当たろうとしている現実に、修は声を震わせていた。
「にわかには信じられない……ボクも専門家じゃないから分からない……けれど、その、もちろん、確認は必要だろうけど、えっと……」
きょうびのファンタジージャンルでも、もう少し凝った話にするのでないか?
たとえば、かくれんぼをしていた子供達がクローゼットの奥に異世界を見た、なんて……それが、ただのおっさんが仕事のために家を出たら、そこは異世界でした、などと。
「よ……ようこそ?」
こんなしまらない異世界トリップなんて、いったい誰が想像するだろう。
まるで夢の中にでも迷い込んでしまったような、そんな不思議な感覚のまま修は、
「ど、どうも……」
アレクシアが差し出した手を、握り返していた。