無題
私はおもむろに足を踏み入れた。
そこは薄暗くて冷たく、豆の匂いに違和感を覚えるほどだ。
マスターもお客など何も気にしていないようで、目の前にコーヒーが一杯置かれただけだった。
店内を見回すと何かどんよりと光るものがあった。
女だ。
その女は私に気づくと途端に目を逸らし、か細い声でこう啼くのだ。
「貴方を、ずっとお待ちしておりました。」
私は笑った。
「お前のような女、私は知らない」と。
小さなすすり泣きが聞こえたかと思うと、女はこちらに寄ってきた。
「ずっと、ずうっと、お待ちしておりました。」
「言っただろう。人違いだ。」
「そんなことは決してございません。確かに貴方様です。」
「話が聞けないのか。」
私はそう言い放ち、席を立った。
女は私に縋り、涙を浮かべて訴える。
「貴方様は、この前も、その前も、そう仰った。私めのことを、お忘れですか。」
私の脳裏に微かに浮かんだ、あの少女。
「私は、何も、知らない。」
忙しない夜をかったるそうに走る電車の中で私は、今日もまた同じように揺れている。