1st 0-零-
「おい」
私の背後から声が聞こえた。いや、やっぱり、聞こえない。そんなの聞こえない。空耳だ。空耳。
「おい。聞こえてないのか」
また声がする。男の人の声。何よ。邪魔しないでよ。私、今から死ぬんだから。
学校の屋上から飛び降りて死ぬ。死んでやる。こんな世の中で生きていても楽しくない。それはすべて私が死ぬことで解決するんだ。死んだら楽になるだろうな……
最後の最後に声を掛けてくれた男の子。心配してくれてありがとうね。でも私の苦しみはあなたにはわからないだろうね。だから振り返りもしません。
もう、さようなら。
スリーカウントで私は飛ぶ。
3、2、1、
「だから!!聞こえてないのかよ!!」
ゼロになる直前にその男の子は、私のもとに駆け寄ってきて、私の腕を掴んだ。
「やめてよ!離してよ!私これからし……し…………」
「し?」
「し……し……」
彼はもの凄い力で私の左腕を掴んでいた。がっちりと。私がここから飛び降りないように。その腕が痛かった。どうして死なせてくれないのだろう。痛い。離して。
「痛いだろ、左腕」
「……」
「俺、ものすごい力入れてる。こんな女の細い腕だったら折れるかもしれないな」
「……何が言いたいの?」
「痛いのは、生きているから。死んだら、感覚もなくなるんだろうな」
……感覚がなくなるならそれもいいじゃない。苦しみも悲しみも味わうことがないのなら、そのほうが幸せじゃない。
「……いいじゃん」
「え?」
「感覚がないほうがいいんじゃないかな。苦しみとか、味わうことなく済むんだから」
「そうか……」
春なのに、まだちょっと冷たい風が横切る。
「でも」
彼は私の背後に語りかける。
「でも、楽しい感覚もわからなくなるのは、さみしくない?」
え……?
私は思わず振り向いてしまった。この時振り向かなかったら、このまま彼の腕を振り払って飛び降りていただろう。……振り向くと、彼は私をただ真っ直ぐ見つめていた。ただただ、真っ直ぐ。鋭い眼差しで、私を見ていた。目が合った瞬間、私は全身の力が抜けた。屋上のフェンスに添えていた右腕の力も抜け、後ろにいた彼に寄り掛かる形になった。
「はぁ……危機一髪」
彼がぼそっと呟いた。すべての力を彼に預けた私は、涙が止まらなかった。
学校のチャイムは何回鳴っただろうか。
私はひたすら泣いた。涙が止まらなかった。何故涙が止まらないのかはわからなかったが、ただただ泣いた。それこそ、その間に学校のチャイムが何回も時間を告げた。日も朝より昇っていた。泣いている間も、彼はずっと私の傍で私を見ていた。鋭い眼差しではなく、優しい目つきだった。
「ねえ」
彼はふいに言葉を発した。
「……な、なんですか」
何故か敬語が口から出た。でも、この男の人、制服を着ているけど同級生かどうかわからないし……もしかしたら、先輩かもしれないし……あ、私、さっき先輩かもしれない人に敬語使わないで喋っちゃった……。
「お腹、空かない?」
「え」
「だって。もうお昼だよ。俺はお腹空いたなー」
私がこの屋上に来たのが1時間目が始まる前。もうお昼なのか、時間が経つのは早い。
ギュルルルル~~~
「……あれ?」
「……す、すみません……」
お昼だと気づいたからなのか、私のお腹が鳴った。一気に顔が赤くなるのがわかった。死ぬのを止められ、お腹の音も聞かれ、私はこの初対面の人になんて無様な姿を見せているんだろう。
「ははははは!やっぱりお腹空くよね!君、目も真っ赤だけど顔も真っ赤」
「……」
「あ、ごめんごめん!よし、わかった!今からお昼ご飯の出前取ろう!」
「はい!?出前!?」
「まあまあ。ちょっと待ってて」
そういうと彼は、ズボンのポケットからスマートフォンを取り出し、どこかに電話をかけ始めた。
「あ、もしもし?美希?ちょっとさ、購買からパン2個買って来て。え?いいじゃん別に。じゃ、屋上で待ってるから持ってきて。はいはい、代金は後で払いますから。うん、頼んだよー」
そう言って彼は電話を切った。なんだか随分と彼の一方的な会話だった。美希さん、って誰だろう。というか、その前にこの男の子は何者なんだろう。
「出前頼んだから。もうちょっとすればパンが届くよ」
「あの」
「……?なに??」
「名前……名前はなんていうんですか」
「名前?あ、俺のこと?」
「はい」
「俺は……渡瀬真尋。1年生。あんたと同じクラスだよ」
「え!?」
「気づかなかったの?俺そんなに影薄いかなー」
渡瀬くんはそう言うとにこっと笑った。同じクラスにいたんだ、渡瀬くん。全然知らなかった。というか、よく考えてみると同じクラスの男子のこと、全然知らないな……
「ごめんなさい、知らなくて……クラスの男子と、喋ったことないかもしれないくらいだし」
「そっか、そういう場合もあるよな」
「あ、あの」
「はい?」
「私の名前は、篠原祈織っていいます」
「知ってるよ」
「え?」
「でも、下の名前は知らなかった。いおり、っていうんだね。よろしく、篠原祈織さん」
渡瀬くんはまたにこっと笑い、私に握手を求めた。私はそれに応じた。彼の手は暖かかった。
「おい!渡瀬さんちの真尋くんよ!」
大きな声と共に、屋上の扉が開いて、一人の女の子が現れた。左手に、パンを四個も持っている。
「おおー。美希。待ってたよー」
渡瀬くんはそう言うと、美希さんを手招きした。
「あのね、一体あんたは何の権限があって私を購買まで走らせるわけ?私、あんたのパシリじゃないんだけどなー。代金あとで返すとか言ってたけどどうせ返ってこないんだろうね。私には目に見えてますよ。それと……って、え?」
美希さんは渡瀬くんの方に向かいながら次々と言葉を連発した。よくこんなに次から次へと口から言葉が出てくるもんだな、と感心していると、美希さんは私の方を見て「この人誰?」という感想が聞こえてきそうな目線を向けてきた。
「えっと……どちら様?」
美希さんは私の方を見て言った。ちょっと苦笑いを浮かべていた。
「あっ、あの……私は……えっと……その……」
私が言葉を詰まらせていると、渡瀬くんが代わるように言葉を発した。
「篠原祈織さんっていうんだ。俺らと同じ1年生。というか、俺と同じクラス」
渡瀬くんの紹介を聞いた美希さんは、
「しのはら、いおり……」
と何故か私の言葉を反芻するように呟いて、何かを考えていた。その間にも、渡瀬くんは続ける。
「で、篠原さん、こいつは永橋美希。俺の幼馴染。吹奏楽部だよ」
「あ、吹奏楽部なんだ……」
美希さんも同じ学年だと知り、少し心の紐が解ける。そして吹奏楽部だということも知り、少し親近感が湧いた。私も中学校で吹奏楽部だったからだ。高校でも吹奏楽を続けようと思っていたけど……
「ああああ!篠原祈織!朝日中のサックスマスターの篠原!!!!」
美希さんは突然大声で言った。私の名前を口にした。私のことを知っていたようだ。
「おい、バカ!いきなり呼び捨てにするって礼儀もなってないな美希は」
渡瀬くんが美希さんに忠告するように言った。
「だって!あの篠原!わわー、感激だよ~」
美希さんはそう言うと私に握手を求めてきた。
(編集中)