第4話
夕夏は差し出された口紅をじっと見つめながら、必死で考えていた。
本当にこの口紅を塗るだけで、お喋り上手になれるのだろうか。
そんな訳ないと思うのに、何故だか口紅から目が離せなかった。夕夏の脳裏に、今朝からの嫌な出来事が、次々と浮かんでは消えた。
人のゴミを押し付けられて違うと言えなかった自分。
足を踏まれているのに何も言えなかった自分。
新しい職場で誰にも話しかけてもらえなかった自分。
三上が差し出している口紅を、夕夏は遂に受け取ってしまった。一緒に渡された手鏡を見ながら、夕夏は口紅を塗ってみた。
真っ赤な口紅。
こんな赤い色は、今まで塗った事がなかった。鏡の中の赤く染まった自分の唇を、夕夏は食い入るように見つめた。
「綺麗」
口から言葉が自然に零れた。
「よくお似合いです」
三上が間髪入れずに、夕夏を褒めてくれた。
人に褒められたのは、いつ以来だろうか。
そう思いながら夕夏は、鏡の中の真っ赤な唇から目が離せなかった。
「どうです?」
三上が尋ねてきた。すると、鏡の中の唇が勝手に動き始めた。
「素敵な色ですよね。こんな綺麗な色の口紅、今まで塗った事がないです。なんだか、新しい自分を発見したって感じです」
夕夏は驚いた。こんなに流暢に話せるなんて。
「買います。この口紅」
迷いは一切なかった。夕夏は鏡の中の唇を、うっとりと見つめた。
自宅のマンションに戻った夕夏は、ドレッサーの上に口紅を置いた。
明日から、私は変われるんだ。
夕夏の心は、強い武器を手に入れたような高揚感に溢れていた。
翌朝、昨日のことは夢だったのではという不安で、いつもより早く目が覚めた。口紅があることを何度も確認した。
夕夏は緊張しながらドレッサーの前に座り、口紅を手に取った。震える手で口紅を丁寧に塗り、鏡に映る自分の顔を見た。
真っ赤な唇。
夕夏は思わず見惚れてしまった。あまりにも似合っているではないか。その時、鏡の中の真っ赤な唇が笑ったような気がした。
だが、そんな事があるわけないと思い直し、夕夏はそれ以上気にしたりはしなかった。
着替えの時、唇の色に合う服を着たいと思ったが、夕夏が今まで持っていた服は一つも似合うものがなかった。なので、仕事帰りに服を買いに行くことにした。とりあえず今日は、一番マシな服を着ていくことにした。
夕夏が、ゴミステーションにゴミを放り込んでいると、「またあんたなの」という、いつもの大声が背後から飛んできた。
きた。
夕夏がくるりと振り向くと、やはりそこには昨日の主婦がいた。
いつものように、仁王立ちでこちらを睨みつけてきている。主婦は、夕夏にゴミ袋をぐいぐいと押し付けながら言った。
「何回言ったらわかるのよ。やり直し」
いつもだったら、夕夏は何も言い返す事が出来ないまま、他人のゴミを分別させられていた。しかし、今日の夕夏は違う。
夕夏は押し付けられているゴミ袋を、主婦に押し戻しながら言った。
「これ、私のゴミじゃないですから!今までのも全部」
夕夏は、絶対に負けるものかという強い気持ちで、主婦を睨み返してやった。
今日の私は、今までの自分とは違うんだ。
つづく




