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お喋りな口紅  作者: はる
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第2話

 目当てのバス停から徒歩十五分の場所に、夕夏の新しい職場はあった。


 古びたビルの三階にある職場の中では、数人の社員たちが忙しそうに働いている。



「いったいどういう事なんだ」



 狭いフロアに、田辺部長の声が響き渡った。


 田辺の年齢は五十三歳。体型は背が低く小太りで、いかにも部長という風体である。その田辺が、空席の机の前で怒りを爆発させていた。


 田辺の前で、困惑した表情を顔に貼り付けた光仲課長が俯いて立っていた。


 光仲の年齢は四十歳。背がヒョロリと高く、痩せ型で銀縁の眼鏡をかけている。神経質そうに見える光仲が、田辺の顔色を伺いながら言った。



「確か、今日からのはずなんですが……」


「新人が初日から遅刻するなんて、私らの時代じゃ考えられない事だぞ」


「部長のおっしゃる通りです。今の若い奴らは何考えてるんでしょうね。おい、矢崎、急いで新人に連絡してくれ」

 


 光仲は、自分の向かいに座っている矢崎遼平に指示を出した。


 矢崎は二十六歳で、この職場では一番年下である。端正な顔立ちで身長も高く、女性にモテそうに見える。



「はい」



 矢崎が受話器を上げた瞬間、「遅れてすみません」という消え入りそうな声が、部屋の入り口の方から聞こえてきた。


 田辺、光仲、矢崎の三人が声のした方を見た。


 そこには髪も服も乱れきった夕夏が、息を切らし立っていた。


 その形相があまりにも恐ろしく見え、三人は声をかけることに躊躇してしまった。だが光仲が、田辺の機嫌をとろうとしたのか、空気を変えるよう自ら声を発した。



「君、初日から遅刻って、会社をなめてるのか……」 



 そうは言いながら、夕夏の表情があまりにも暗すぎて、光仲は恐怖を感じていた。そのせいなのか、光仲の声が少しずつ小さくなっていき、社内は驚くぐらい静まり返ってしまった。



「光仲くん、後は頼んだぞ」



 田辺が、逃げるように部屋から出ていってしまった。



「そんな……」



 押し付けられた形になった光仲が、夕夏から目を逸らし、矢崎の方を見た。



「矢崎」


「はい」


「お前の後輩だ。色々教えてやれ」


「……はい」



 光仲はわざとらしく咳払いをしてから、自分の席に戻っていった。次に押し付けられた矢崎が、夕夏を見て大きな溜息をついた。


 夕夏は遅刻した理由を誰にも言えないまま、その場に佇んでいた。


 矢崎は、夕夏に簡単な説明だけすると、そそくさと自分の席に戻っていってしまった。教えられたのは、電話がかかってきたら取って、矢崎に繋ぐこと。それだけだった。


 しかし、夕夏の勤務中に電話が鳴ることは一度もなかった。だから夕夏は一日中黙って座っているだけで、仕事と呼べるようなことは何ひとつ出来なかった。




 定時である五時に職場を出た夕夏は、家に帰る気になれず、当てもなく歩き続けていた。少し歩くと、煌びやかな街明かりが見えてきた。


 人々が明かりに向かって歩いて行っている。目に入る全ての人間が、自分より幸せだと夕夏は思った。


 朝からの嫌な出来事が、映像となり頭の中に流れ続けている。

 

 一日中座っているだけの職場。新人なのに仕事を教えてもらえず、誰からも話かけられなかった。自分は歓迎されていないとすぐにわかった。


 

 何故私は、いつもこうなんだろう。不幸が影のように付き纏ってくる。


 

 夕夏は人に気づかれないぐらいの溜息をつき、何気に横を向いた。


 思わず声が出てしまった。


 店のガラスに映る自分の顔が、幽霊に見えたからだ。顔色が悪く、表情も暗い。


 その時、背後から酔っ払いの男が夕夏にぶつかってきた。夕夏が振り返ると、その男は謝りもせず知らぬ顔で歩いていってしまった。



 いつもこうだ。



 右手の親指の爪を噛みながら、夕夏は思った。嫌な事があると爪を噛む癖がある。爪を噛みながら、男の背中を睨みつけた。


 男が振り返ったので、慌てて目を逸らした。その逸らした先に、お店の看板があった。



『今日からあなたもお喋り上手に』



 看板に大きな文字でそう書かれてあった。



「お喋り上手……」



 夕夏はその言葉に吸い寄せられるように、ゆっくりと店に近づいていった。




                    つづく

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