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お喋りな口紅  作者: はる
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第1話

 どんよりとした曇り空だった。


 一人の女が、線路わきのフェンス沿いを、足を引きずりながら歩いていた。


 女は膝まである白いワンピース姿で、腰まである長い髪は無惨にも乱れており、足は裸足であった。不自然なぐらい白い肌に、真っ赤な口紅が浮かび上がっているように見えたが、その目は虚ろだった。


 女の傍を、電車が通過していった。




 早朝、五階建ての古びたマンションの入口から、スーツ姿の狩野夕夏がゴミ袋を持って慌てたように出てきた。右手に鞄、左手にゴミ袋を持っている。


 夕夏はゴミステーションの中に、持っていたゴミ袋を投げ捨てた。



「ちょっとあんた」



 女性の大声が、夕夏の背中に殴りかかるように降ってきた。


 夕夏はまたかと思った。


 ゴミを捨てる度に起きることなので、もう驚きはなかった。いつものように溜息を飲み込み、ゆっくりと後ろを振り返った。


 案の定、近所に住んでいる六十代後半ぐらいの主婦が、機嫌の悪い表情でこちらを睨みつけながら立っていた。


 その主婦は、手に持った大きなゴミ袋を、夕夏の身体にぐいぐいと押し付けてきた。



「ちゃんと分別してくれないと困んのよね。いつもいつもこんな出し方されちゃ」



 主婦が文句を言いながら、ゴミ袋の中身を見せつけるように、夕夏の顔の前に突きつけてきた。


 鼻の奥に、生ゴミの腐ったような臭いが襲いかかってきた。思わず顔を背けたが、主婦は逃すものかと言わんばかりに、ゴミ袋をまた夕夏の目の前に差し出してきた。  


 仕方なくゴミ袋の中を覗くと、そこには分別されていないものだらけだった。当然、自分が捨てたゴミではなかった。



「私のじゃ……」


「やり直してね」



 主婦は聞く気がないのか、夕夏にゴミ袋を押し付け足早に去って行ってしまった。



 私じゃないのに。



 やりきれない想いとゴミ袋を抱えて、夕夏はその場に立ち尽くしてしまった。


 しばらくその場に立っていたが、ゴミをそのままにしておくわけにもいかず、一度家に戻り、ゴム手袋をはめ、ゴミを仕分けしなおした。それからまたゴミステーションに捨てに走った。


 余計な時間を食ってしまったことを悔やみながら、夕夏はバス停に向かって走った。乗る予定のバスには間に合わないとわかっているが、それでも必死で走った。


 初日から遅刻するわけにはいかなかった。


 夕夏は今日から新しい職場で働くことになっていた。


 前の職場を解雇され、それから何度も面接を受け続けやっと決まった職場なのに、もうどれだけ走っても間に合うことはない。


 夕夏は悔しくて唇を噛みしめた。


 いつもそうなのだ。何をやっても上手くいったことがない。前の職場だって、遅刻が多いからという理由で簡単に解雇された。もちろんあの主婦のせいだ。




 夕夏が息を切らしながらバス停に着くと、既に十人程並んでいた。


 座ることは不可能だと諦め、列の最後尾に並んだ。逸る気持ちで、何度もスマホで時間を確認した。こういう時の時間の進み方は、いつもより早く感じる。


 夕夏はまた唇を噛んだ。口の中に血の味を感じた。


 その時、夕夏の背後に一人の中年男性が並んだ。男性が小さな声で「臭いな」と呟いた。


 夕夏は自分のことを言われたような気がして、不自然に見えないように自分の手の匂いを嗅いだ。


 

 臭かった。



 急いでいたので、ゴミの分別のあと手を洗うことをすっかり忘れていた。今すぐ手を洗いたいと気が急いたが、バスが近づいてきているので諦めるしかなかった。


 バスが着き、列が前に進みだした。夕夏もそれにならって続こうとしたが、後ろにいた男にすいっと追い抜かされてしまった。


 抜かされたことに驚いて立ち止まると、後ろに並んでいた人たちに次々と抜かされてしまった。


 夕夏が動き出すタイミングを見つけられずその場に立ち尽くしていると、邪魔だったのか誰かに身体を強く押された。道に身体を打ちつけるように転倒した。


 転倒した衝撃で、夕夏はしばらく起き上がることが出来なかった。それなのに、道に倒れている夕夏に誰一人声をかけることもなく、次々とバスに乗り込んでいってしまった。


 夕夏が立ちあがろうとした瞬間、無情にもバスのドアが閉まった。乗りそびれた夕夏を気にかけることなど一切なく、バスは走り去ってしまった。


 もう立ち上がる気力すら湧いてこず、夕夏はその場に座り込んだ。肘や膝から血が流れているが、そんなことよりも心の方が痛かった。


 いつもこうなのだ。違うと思っても何も言い返せず、心から血を流し続ける。



 こんな人生、もう嫌だ。



 何か嫌なことが起こる度に夕夏はそう思うのだけれど、変えることができない。


 どうやって変えていいのかもわからない。


 人はこういう時、どうしているのだろうか。友達のいない夕夏は、それを尋ねることすらできない。


 夕夏は、考えることを諦めた。考えたところでなのだ。それよりも、次のバスに乗るために立ち上がるしかなかった。




                      つづく

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