七 恋の終わり
今から遡ること数十年、平安の都を村上天皇が治めていた天暦の年。
主上からの勅令を受けて、東の国から一人の若い法師が都へと向かっていた。
腐敗した僧侶の世界に身を置きながら、この若者は規律をこよなく愛し、雅事を佳くたしなんだ。
その実直さが都にまで伝わり、こうして宮廷に仕える運びとなったのだ。
故郷を出立して数日経ったある時、法師は山奥に美しい景色を見つけた。
瑞々(みずみず)しい新緑の中に、澄んだ泉が広がっている。
朝早い時刻のせいか、靄が蓮の花が浮かぶ水面から立ち上っていた。
(おお……!何と美しい!)
法師の目の前の風景は、天女の棲まう極楽浄土そのもののようであった。
法師はいてもたってもいられず、まだ何も描かれていない巻物と筆を取り出した。
頭に思い浮かべた天女を眼前の景観に重ね、どのような絵図に仕上げるか思い描く。
どれくらいの時が経ったのだろう。
なかなか思う通りに描くことが出来ず、筆が進まぬうちに辺りが夕闇に包まれていることに気付いた。
絵を完成させたい想いと、今から山道を進んだところで到底明るいうちに都には着けまいという確信の元、法師は今晩はこの場所で野宿することにした。
「もし……」
法師が寝床を用意していると、ふいに背後から若い女の呼び声がした。
驚き振り返ると、果たして可憐な乙女がおずおずと立っていた。
「あなたは……?」
人が滅多に立ち入らぬような山奥だったので、法師は不思議に思い尋ねた。
「あたくしはこの土地で静かに暮らしておる者にございます。先程からお坊様のご様子を拝見しておりました。よろしければ、今晩はうちにお泊りになりませんか?このような辺鄙な場所ゆえ、満足なおもてなしも出来ませんが……」
法師はこの美しい乙女の申し出に甘えることにした。
娘が案内したのは泉から程近い庵であった。
粥や山菜などを馳走になりながら、娘の名や何故このような場所に暮らしているのか尋ねたが、娘が困ったように笑うのでそれ以上は問わなかった。
かわりに、法師は自らの旅路の話を娘に語って聞かせた。
娘は頬を桜色に染めながら、法師の話に一生懸命に耳を傾けている。
その様子に、法師はかつてない幸福感を味わっていた。
それから数日、法師はやはり理想郷を絵にすることが出来ず、娘と過ごす時間だけを重ねていった。
そうして、それが必然であるかのように二人は恋に落ちたのだった。
「我が愛しの君、あなたは拙僧の天女だ。拙僧はあなたをこの風景と共に絵に残したい」
娘は始めこそ躊躇っていたが、すぐに恥ずかしそうに首を縦に振った。
法師の筆は今までの遅滞を取り戻すかの如く、鮮やかな色彩を紙の上に滑らせていく。
いつしか法師は本来の目的を忘れ去り、娘との暮らしに浸っていた。
ある日、法師はこのような場所で独りで暮らしていた娘の出生がどうしても気になり、娘に尋ねた。
法師の真剣な想いに胸を打たれた娘はぽつりぽつりと真実を語り始めた。
「あたくしはこの泉に棲まう蛇でございます。あの日貴方様のお姿に心を奪われ、こうして人間の娘の姿でお逢いしに参ったのです。……でも、信じて下さい!あたくしは人間を傷つけるようなまねは致しませんわ!」
娘は恐る恐る法師の表情を伺った。
騙されたと怒るだろうかと思ったが、意外にも法師は微笑んでいた。
「……お叱りにならないのですか……?」
「何を怒ることがありましょうか、愛しの君よ。それでも、拙僧があなたを想う気持ちに変わりはありません」
娘は法師の言葉に涙を流した。
それは生まれて初めての喜びの涙だった。
しかし、異変はすぐに訪れた。
絵もほぼ完成に近付き、いつも通り娘が泉の前に立ち、法師がそれを天女に見立てて写生している時だった。
「う……!?」
娘の身体が硬直したまま指先すら動かせなくなった。
そのうえ、強い力で引きずられるような感覚がする。
「法師……さま……」
がちがちと奥歯を鳴らしながら、娘は助けを乞うように法師を見遣った。
だが、法師は娘の様子を気にするそぶりもなく、絵を描き続けている。
「法……?」
朦朧とする意識の中で、娘は理解した。
今娘を引きずり寄せようとしているのは、あの法師の絵巻物だ。
そして……
「な……ぜ……?」
よく見れば筆を動かしながら法師は口の中で何事か呪文を呟いている。
娘は確信した。
法師は娘を絵巻物に封じる気なのだ。
「何故……な……の?」
もう一度、疑問を口にする。見れば足元から徐々に消失している。
「何故?愚問だな。お前が妖だからだよ」
法師は吐き捨てるように言った。
「あ、あたくしの・こと……愛……して・いる……と」
「危うくお前の術に惑わされるところだったよ」
「じゅつ……など……」
忌ま忌ましそうに言い放つ法師の目には、愛しい者を見つめるような優しさはもうどこにも無かった。
娘の身体はもう腰まで消えている。
「一時でも妖と愛を交わしたなどと、虫酸が走る!この絵巻物を持って、主上に到着が遅れたことを詫びねば……!」
娘の中で何かが弾けた。
かつての恋人に対する憎悪の炎がふつふつと込み上げる。
「お・のれ……よくも……!」
首元まで絵巻物に吸い込まれた時、娘は最後の力を振り絞った。
黒髪がうねうねと無数の蛇の如く宙にうねり、法師に絡み付く。
「ぐっ……!何をする!?」
娘はありったけの呪いを発した。
消え行く蛇の娘と共に法師もまた、その姿を歪めていく。
「お前……も……道連れだ……!」
法師の身体はどす黒く濁り、娘が消えるのと同時に消え去った。
泉の際には、人間の姿に似た木と艶やかな天女たちが描かれた絵巻物が残されていた。




