四 後神(うしろがみ)
都の人々が寝静まった子の刻、吉昌と真明は左近衛少曹・橘惟次の屋敷を訪れた。
惟次は萎縮しつつ、自ら出迎えた。
不思議そうに真明を見る惟次に、吉昌は自分の弟子だと説明する。
「それはそれは……!ささ、どうぞ、奥へ」
二人は惟次の後に続いて台盤所廊を渡り、北対へと足を踏み入れた。
帳台に吊された布の奥から、微かな寝息が聞こえてくる。
惟次の北の方・秋野だ。
「まだ、何もおっしゃってませんね」
真明が声を潜めて確認した。
「……しばし待つ」
吉昌はぽつりと告げると、秋野を見張るような形で床に腰をおろした。
真明と惟次もそれにならう。
「あの、吉昌殿……。妻は……秋野はどうなのでしょうか?」
惟次が心配そうに帳台と吉昌の顔を見比べる。
「……」
吉昌は無言のまま、帳台を見つめ続けた。
「ご心配されなくとも、きっと陰陽……師匠が何とかしてくれますよ」
オロオロと狼狽している惟次を真明が小声で励ます。
それでも惟次は不安を拭い切れないのか、膝の上で握りしめた拳がかすかに震えていた。
緊張感が張り詰めたまま、時間が刻一刻と過ぎていき、気が付けば丑四つを回っていた。
秋野は相変わらず安らかな寝息をたてており、寝言を言う気配はない。
さすがに睡魔が真明を襲い始めた頃、吉昌が静かに立ち上がった。
「吉昌殿……?」
惟次が不安そうに見上げるなか、吉昌は懐から香炉を取り出し、香をくべ始めた。
「……私はこれにて退散する。この香には破魔の力がある。ひとまず、今夜はこれで大丈夫だろう」
室内に甘く、それでいて酒のように芳醇な香りが広がった。
「し、しかし……っ」
このような時刻まで付き合わせたことを気に病んでか、惟次は吉昌を止めようとして言い淀んだ。
「で、では、外までお見送りを……」
「それには及ばない」
二人のやり取りを見守っていた真明に強烈な眠気が押し寄せる。
それを何とか気力で押し止め、その場を去ろうとする吉昌の後を追う。
「惟次殿は北の方についててあげて下さい」
真明はそう言って振り返ったが、惟次の目も心なしかとろりとしていた。
橘惟次宅を出た吉昌と真明は、しんと静まり返った朱雀大路を並んで歩いた。
月は霞みがかっており、都の闇はいつもに増して深い。
「惟次殿は……何というか、近衛府にしては腰の低い方ですね」
真明は、惟次と同じく近衛府に務める厳格な父と、いつも威張り散らしている兄を思い出しながら言った。
そういえば、以前兄が惟次のことを臆病でうだつの上がらない男だと、耶喩混じりに愚痴を零していた。
「……」
吉昌は手に松明を持ち無言で歩く。
真明もそれ以上言葉は口にせず、しばし完全な沈黙が辺りを支配した。
ふと、松明の炎が揺れる。
真明が吉昌の松明に視線を向けると同時に、後から真明の一房に束ねた髪が引っ張られた。
強い力ではないが、数回呼び掛けるように繰り返される。
「?」
「振り返るな!」
真明が背後を確かめようとするのを吉昌が制止する。
「……後神だ。振り返れば命は無い」
吉昌の言葉に真明は息を飲み、前方を見たまま懐の護刀を握りしめる。
吉昌が口の中で転がすように呪文を唱えた。
突然、吉昌の肩が掴まれ、強引に振り向かせるように勢いよく引っ張られる。
「……急急如律了!!」
ぱあぁぁぁん!!!
流れに任せて振り返ると同時に吉昌は力強く呪いを唱え、閉じた扇で肩を掴んだ何者かを振り払った。
「陰陽頭殿!!」
真明が素早く呪いの歌を詠みあげると、抜き身の短刀が朱色に光り、腰刀の尺までその刀身を延ばす。
真明は体勢を整え身体ごと後を振り返った。
「!」
吉昌と真明の目に飛び込んできたのは影だった。
最初は松明が映し出す建物の影かと思えたが、影は人形のように揺れながら立っていた。
まるで、人間の影が独立したような奇妙な姿だ。
影はふしゅるふしゅると息をしているようだった。
右手にあたる部位は、刃のように長く、鋭く尖っている。
影は陽炎の如く輪郭を揺らしながら再び襲い掛かかってきた。
その刃を真明が紅き刃で受け止める。
ガキキィィィン……!!
鈍い音と供に、影が唸る。影は執拗に攻撃を繰り返し、真明もそれに応じた。
普段、姫君として暮らしているとは思えない剣さばきだ。
真明の背後では、吉昌が印を組み、呪文を輪唱している。
「ぐぁぁぁっ」
影は真明から一歩引き、苦しみ悶えるように激しく形を波うたせた。
そして狂ったように真明を飛び越え、吉昌へ突進した。
「……!!しまった……!」
真明が慌てて振り返る。
「陰陽頭殿……!」
「藤!!」
真明と吉昌はほぼ同時に叫んでいた。
ふわりと藤模様の袿を纏った女房が虚空から突如現れ、影と吉昌の間に割って入る。
「あい」
藤はにっこりそう答えると、袖を振り、吉昌に斬りかかった影を一薙ぎした。
影は後方へと弾かれる。
「藤殿……!?」
目を白黒させる真明に、藤が微笑む。
「おおぉぉ!!」
呻きながらもんどりを打つ影に、吉昌が高らかに告げた。
「真の姿を現せ……!」
影が嫌だとかぶりを振るように大きく揺れたが、抵抗も空しく、纏っていた闇を引きはがされた。
「うぁあぁあっ」
「……!!」
苦痛に咆哮したその顔。
今だ影を身体に残してはいるが、闇に浮かんだのは、左近衛少曹・橘惟次の顔だった。




