二 真雪と藤
「陰陽頭殿、いらっしゃいますか」
太陽が頂点から下り始めた頃、藤原真明は安倍吉昌邸を訪れた。
辺りに充満する蝉の鳴き声が余計暑さを感じさせる。
「主はお出かけどすえ」
「!」
真明が返答を待っていると、奥から安倍家の女房らしき女人が現れた。
気配も足音もなかったので、真明は突然目の前に出現したかのような錯覚を覚えた。
「主に何ぞ御用どすか?藤原真明様」
女房はにっこりと笑う。
ふわりと薫る甘い香りは、藤の花だろうか。
「何故私の名を……」
真明はこの女房に名乗ったことがあっただろうかと思い返してみたが、やはり心当たりがない。
「初めから存じ上げておりますえ」
女房はくすりと涼やかに笑った。
真明の頭は余計混乱する。
「藤、どなたかいらっしゃているの?」
壁代の奥から、穏やかな女性の声がした。
吊された布ごしに人影が動くのが見える。
「真雪様、主に可愛いらしいお客様どすえ」
女房がくすくす笑いながら奥にいる女人に声をかけた。
「どなたかしら?」
「あい。藤原真明様どす」
「まあ!」
驚きの声が聞こえ、続いて壁代をめくって卯花の袿を身につけた女性が顔を出した。
艶やかな黒髪に、翡翠色の瞳は優しく細めている。
「あの、私は藤原真明と申します」
真明がもう一度自ら名乗り礼をすると、女性は微笑みながら頷いた。
「貴方のことは吉昌殿から聞いていますよ、真明殿。申し遅れました、私は吉昌殿の妻・真雪といいます」
「吉昌殿の北の方……?」
翡翠色の瞳に吸い込まれそうになりながら、真明は思わず疑問を口にしていた。
いつの間にか藤と呼ばれた女房は姿を消している。
「ふふっ。真明殿はご存じなのでしたわね。吉昌殿の秘密を」
真雪が悪戯っぽく口元に人差し指をあてる。
「ええっと、その……」
真明が答えあぐねていると、真雪はくすりと笑った。
「私は吉昌殿の偽りの妻なのですわ。あの御方のことを万が一でも疑う方が出て来られないように。陰ながらお支えするのが私の役目ですの」
「!」
真明は、真雪の笑みにはどこか寂しさがあるように感じた。
「……辛くはないのですか?」
初対面だというのに、真明は思わず尋ねていた。
真雪は一瞬驚いた顔をし、すぐに笑顔に戻る。
「ええ。吉昌殿も大事にして下さってますもの。とても幸せです。……真明殿はお優しいのですね」
「いえ、そのようなことは……」
真明は恐縮して、首をふる。
「それはそうと……、真雪殿の瞳の色、宝珠みたいでとても綺麗ですね」
「……!」
真雪の頬が紅色に染まる。
「ありがとうございます」
そう言い、真雪は嬉しそうに笑った。




