第6章:地獄の開幕、そして責任転嫁
運命の日。大阪万ミャクの開会式は、テレビカメラが映し出す空虚な祝祭感の中で、滞りなく執り行われた。総理大臣の退屈なスピーチ、子供たちの合唱、そして色とりどりの風船が、鼠園には見えなかった真夏の積乱雲へと吸い込まれていく。
総合司令室の巨大モニターの前で、鼠園は静かにその時を待っていた。周囲では協会幹部たちが安堵の息をつき、互いの労をねぎらっている。彼らはまだ知らない。これから開かれるゲートの向こう側に、自分たちの想像を絶する本当の地獄が待ち構えていることを。
午前9時。開場を告げるファンファーレが高らかに鳴り響いた。
その瞬間だった。
「ゲ、ゲートに人が殺到! キャパシティを大幅に超えています!」
「予約システム、サーバーダウン! アクセス集中により応答不能!」
「会場各所で、年パスを持った入場者とスタッフが衝突! 制御できません!」
司令室に、現場からの悲鳴が怒涛のように押し寄せる。巨大モニターに映し出された無数の監視カメラの映像は、一瞬にして阿鼻叫喚の絵図へと変わった。ゲートには、破格の年パスを握りしめた人々が津波のように押し寄せ、将棋倒し寸前の危険な状態に陥っている。会場内では、案内を求める人々の怒号と、泣き叫ぶ子供の声が渦を巻いていた。
鼠園が危惧した悪夢のすべてが、現実となって牙を剥いたのだ。
ずさんな工事で埋められたB7地区からは、腐った卵のような異臭――メタンガスが漏れ出し、気分を悪くする人が続出。デジタル浪速が開発した欠陥だらけのシステムは完全に沈黙し、人々は広大な会場でただ右往左往するしか術がない。衛生管理予算を削られたトイレは瞬く間に汚物で溢れ、水飲み場からは赤錆の混じった水が出た。そして、異常発生した羽虫の大群が、まるで黒い雪のように空を舞い、人々の顔や食べ物に群がった。
「ど、どうなっているんだこれは!」
「鼠園君! 君が現場の責任者だろう! 何とかしたまえ!」
さっきまで安堵の表情を浮かべていた幹部たちが、一転してヒステリックに叫び、すべての視線を鼠園に突き刺す。彼らの目には、焦りと恐怖、そして「やはりこいつのせいだ」という、安堵に似た非難の色が浮かんでいた。
鼠園は、その視線を一身に受けながらも、冷静だった。
「今すぐ全ゲートを一時閉鎖し、入場制限を! そして、予約システムが復旧するまで、主要パビリオンの運営を停止してください!」
「馬鹿を言え! そんなことをしたら、世紀の大失敗だと世界中に報道されるぞ!」
「報道と、お客様の命と、どちらが大切なのですか!」
鼠園の叱責に、誰もが言葉を失う。彼は、混乱の中でも的確な指示を矢継ぎ早に飛ばし、現場のスタッフを鼓舞し続けた。それは、沈みゆく船の船長としての、最後の、そして唯一の責務だった。
しかし、現場の努力も虚しく、一度決壊したダムを止めることはできなかった。
SNSには、リアルタイムで地獄の実況が投稿され、瞬く間に世界中を駆け巡った。
『#地獄万ミャク』
『#金返せ』
『#虫だらけ』
無数の怒りと失望の言葉が、デジタルタトゥーとなって、大阪万ミャクの歴史に永遠に刻み込まれていく。
その日の午後。
事態を収拾するため、緊急記者会見が開かれることになった。鼠園は、現場責任者として、すべての事実を正直に話し、国民に謝罪する覚悟を決めていた。
だが、会見場の壇上に、彼の席は用意されていなかった。
スポットライトの中央に立ったのは、吉本ごうぞうだった。
そして、彼の隣には、憔悴しきった表情の協会会長が、まるで操り人形のように座らされている。
吉本は、テレビカメラの前で深々と頭を下げると、ハンカチで目頭を押さえ、声を震わせながら語り始めた。
「この度の混乱は、断じて、あってはならないことでした。国民の皆様の期待を裏切る形となり、誠に、誠に申し訳ございません!」
完璧な演技だった。反省と誠意に満ちたその姿に、フラッシュが一斉に焚かれる。
そして、彼は続けた。決定的な、一言を。
「今回の事態を引き起こした最大の原因は、現場の全権を委任しておりました、鼠園統括プロデューサーの、あまりにも独善的で、現実を無視した運営方針にありました」
テレビの前の鼠園は、息を飲んだ。ついに、始まったのだ。
吉本は、用意された脚本を読むかのように、淀みなく語る。
「我々は、彼の『ディズ・リゾートでの輝かしい実績』を過信しておりました。彼は、我々の忠告にも耳を貸さず、理想ばかりを追い求め、現場に次々と無理な要求を突きつけました。その結果、このような未曾有の混乱を招いてしまったのです。彼を信じ、任命してしまった私の責任です。私が、甘かった!」
嘘で塗り固められた、見事なストーリー。
地盤対策に反対したのは誰か。欠陥システムを導入したのは誰か。無謀な年パスを強行したのは、一体誰だったのか。
真実は、いとも簡単にねじ曲げられ、悪意に満ちた物語へと姿を変えた。
悪役は、鼠園ただ一人。
記者から「鼠園プロデューサーの責任は?」という質問が飛ぶ。
吉本は、悲劇の主人公を演じきりながら、冷酷に言い放った。
「協会として、彼には厳正なる処分を下す所存です」
それは、死刑宣告だった。
総合司令室のモニターを見つめる鼠園に、周囲の職員たちが、恐れと侮蔑の入り混じった視線を向ける。もう、誰も彼の言葉を信じないだろう。彼は、この国の誰もが石を投げていい、ただ一人の「国民の敵」に仕立て上げられたのだ。
鼠園は、モニターに映る吉本の、悲しみの仮面の下に隠された、ほくそ笑むような目を見つめていた。
――これで、お前の脚本の第一幕は終わりか、吉本ごうぞう。
――見事な舞台だった。
だが、お前は知らない。
この茶番劇の本当の主役が、今、何を考えているのかを。
鼠園は、誰にも気づかれぬよう、ポケットの中のスマートフォンを静かに握りしめた。
画面には、たった一言だけのメッセージが表示されていた。
『ショーの準備は、整った』
地獄の幕は上がったばかり。
そして、これから始まる第二幕の脚本を書くのは、この俺だ。




