第5章:仕組まれたスケープゴート
開幕まで、あと一ヶ月。
大阪万ミャクの建設現場は、もはや祝祭の準備というより、沈みゆく船の様相を呈していた。鼠園のデスクには、毎日のように現場からの悲鳴が報告書という名の遺書のように積み上がっていく。
「B7地区よりガス臭発生の報告多数! なにわジオテックは『許容範囲内』の一点張りで調査に応じず!」
「基幹システム、負荷テストでサーバーが三度ダウン! デジタル浪速は『これ以上の増強は契約外』と開き直り!」
「年間パスポート、想定の五倍の売れ行き! ゲートのキャパシティを遥かに超えており、将棋倒しの危険性あり!」
「複数の下請け業者より、工事費未払いの訴え! 吉本系列の元請け企業と連絡取れず、現場作業員がボイコット寸前の状態!」
すべての問題の根源は、吉本ごうぞうという名のガン細胞にあった。彼がばら撒いた利権という毒が、プロジェクトの隅々まで蝕み、壊死させようとしている。
鼠園は、眠る時間も惜しんで奔走した。
自らヘルメットを被ってガス臭のする現場に立ち、作業員たちに頭を下げて説得にあたった。ディズ・リゾート時代のコネクションを総動員し、旧知のシステムエンジニアたちに徹夜でデジタル浪速の欠陥システムの解析を依頼した。ゲートの専門家を自費で呼び寄せ、人の流れをシミュレーションし直し、わずかでも危険を減らすための代替案を不眠不休で作成した。
だが、彼の努力はことごとく、分厚く、ぬめりのある壁に阻まれた。
協会幹部たちは、鼠園が具体的な改善案を提出するたびに、判で押したように同じ言葉を繰り返した。
「事を荒立てて、吉本先生を刺激するようなことはやめてくれ」
「もう時間がない。今さら計画は変更できない」
「君は理想が高すぎる。現実を見たまえ」
それどころか、協会内には悪意に満ちた噂が意図的に流布され始めた。
「あの鼠園とかいう東京のエリートが、現場を引っ掻き回すから、かえって工事が遅れとるらしい」
「無理な要求ばかりするから、業者が愛想を尽くしたそうだ」
「しょせん、お役所仕事の現実を知らん、お坊ちゃんよ」
おかしい。何かが、根本的におかしい。
これは単なる組織の硬直化や、政治家の横暴といったレベルの話ではない。まるで、プロジェクトが失敗すること自体が、目的であるかのような――。
鼠園の脳裏に、拭いきれない疑念が霧のように立ち込め始めていた。
その霧が晴れたのは、開幕まで二週間を切った、嵐の夜だった。
最後の望みをかけ、鼠園は万ミャク協会の会長室のドアを叩いた。これまで彼を招聘してくれた恩義に、万に一つの期待をかけて。
「会長、お願いします! このままでは、本当に取り返しのつかない惨事が起こります! 今ならまだ間に合う。どうか、会長の権限で吉本さんを」
しかし、協会のトップであるはずの老会長は、力なく首を振り、目を伏せたまま、絞り出すように言った。
「すまない、鼠園君。私には、もう何もできないんだ」
「なぜです! あなたはこのプロジェクトの最高責任者じゃないですか!」
「責任者そうだな。だが、権力者は別にいる」
会長は、疲れ果てた表情で顔を上げた。その目には、後悔と諦観が滲んでいた。
「君をここに招聘することを、最後まで強く推薦したのは、他ならぬ吉本先生だったんだよ」
その言葉は、雷となって鼠園の頭脳を撃ち抜いた。
――吉本が、俺を?
瞬時に、すべてのピースが、恐ろしい絵を形作って繋がった。
なぜ、数ある候補者の中から、ディズ・リゾートという華々しい経歴を持つ自分が、あえて選ばれたのか。
なぜ、自分の正論はことごとく握り潰され、現場は意図的に破壊されていったのか。
なぜ、自分の周囲には誰も味方がおらず、悪評ばかりが流されるのか。
吉本は、最初からこのプロジェクトが失敗することを、織り込んでいたのだ。
いや、違う。
彼が望んでいたのは、ただの失敗ではない。「歴史に残る、劇的な大失敗」だ。
ずさんな工事、欠陥だらけのシステム、制御不能な来場者。これらが引き起こす大混乱――。その時、国民の怒りの矛先はどこへ向かう? プロジェクトを私物化した政治家ではない。「東京から来た、理想ばかりを語る無能なエリート」という、これ以上なく分かりやすいアイコンだ。
自分は、そのために呼ばれたのだ。
この巨大な不正と失敗の責任をすべて一身に背負い、国民の前で断罪されるためだけの、完璧な「スケープゴート」として。
そして、すべての混乱が自分一人のせいにされた後、吉本は「事態を収拾した英雄」として現れ、この負の遺産の跡地に、IRという次なる利権の城を築くのだろう。
それが、吉本ごうぞうが描いた、この壮大な茶番劇の全貌だった。
「そうか。そういう、ことだったのか」
鼠園の口から、乾いた声が漏れた。会長室を出た彼は、プレハブの廊下の壁に、背中を預けて崩れ落ちた。
怒りよりも先に、こみ上げてきたのは、自らへの嘲りだった。
自分は夢を創るプロだと自負していた。だが、現実はどうだ。巨大な悪意によって仕組まれた、惨劇の主役にまんまと仕立て上げられていたに過ぎない。
窓の外では、風雨が激しく建物を打ち付けている。まるで、これから始まる地獄を予兆するかのように。
どれくらいの時間、そうしていただろうか。
やがて、鼠園はゆっくりと立ち上がった。
彼の顔から、苦悩や絶望の色は、きれいさっぱり消え失せていた。
残っていたのは、底なしの暗い沼のような静けさと、その奥で青い炎のように燃え盛る、絶対的な闘志だけだった。
――面白いじゃないか、吉本ごうぞう。
――俺を主役にしてくれるというのなら、喜んでその舞台に立ってやろう。
――ただし、結末は、お前の書いた脚本通りにはならない。
――この惨劇のフィナーレで、お仕置きとして、地獄の業火に焼かれるのは、お前の方だ。
鼠園は、自分のデスクに戻ると、私用のスマートフォンを取り出した。そして、たった一件だけ登録された、特別な番号を呼び出す。それは、彼が最も信頼する、ディズ・リゾート時代の「仲間」の番号だった。
「俺だ。力を貸してほしい」
反撃の幕が、今、静かに上がった。




