第4章:悪魔の年パス
地盤対策という名の爆弾、そして心臓部を奪われたも同然の予約システム。満身創痍の船出となった「大阪万ミャク」プロジェクトに、さらなる暗雲が垂れ込めていた。それは、プロジェクトの根幹を揺るがす「金」の問題だった。
「――以上をもちまして、最新の収支予測とさせていただきます」
協会の経理担当役員が、青ざめた顔で説明を終えた。スクリーンに映し出された棒グラフは、収入予測が悲観的なまでに低く、支出の赤色が天を突くように伸びている。誰の目にも明らかな、絶望的な「赤字」の二文字が、会議室の空気を鉛のように重くした。
「ど、どういうことだこれは!」
「これでは国民に説明がつかんぞ」
役員たちが狼狽し、ざわめきが広がる。これまで吉本の言いなりになってきた者たちも、自らの責任問題がちらつき、他人事ではいられないのだ。
その混乱を、待ってましたとばかりに制したのが、吉本ごうぞうだった。彼は悠然と立ち上がると、救世主のような芝居がかった仕草で両手を広げた。
「まあ、みなさん、落ち着きなはれ。こんなこともあろうかと、ワシが起死回生の一手を用意したりましたわ」
その言葉に、全員の視線が集中する。
「その名も、『大阪万ミャク・ドリーム年間パスポート』や!」
吉本が得意げに掲げたフリップには、けばけばしいデザインのカードと共に、信じられない価格が記されていた。
「通常入場券三回分のお値段で、会期中、なんと毎日! いつでも! 入場し放題! これでっせ!」
一瞬の沈黙の後、会議室は先ほどとは質の違うどよめきに包まれた。
「こ、これはすごい!」
「これなら目標来場者数も一気に達成できるぞ!」
「まさに錬金術だ!」
役員たちの顔に、欲望に満ちた生気が戻る。赤字という断崖絶壁から救い出してくれる、悪魔の囁き。その甘い響きに、誰もが酔いしれていた。
ただ一人、鼠園をのぞいては。
「お待ちください!」
鼠園の、氷のように冷たく、鋭い声が響き渡った。水を打ったように静まり返る会議室で、彼はゆっくりと立ち上がった。その目は、獲物を前にした獣のように、まっすぐに吉本を射抜いていた。
「それは、禁じ手です。絶対にやってはならない」
「なんやと?」吉本の眉がピクリと動く。
「皆さん、我々が売るべきは、紙のチケットではありません。ゲストの心に一生刻まれる、最高の『体験』という名の思い出です」
鼠園は、役員たち一人ひとりに語りかけるように続けた。
「年間パスポートは、その『体験』の価値を、根こそぎ破壊する劇薬です。ディズ・リゾートでも、かつて導入した結果、何が起こったか。一部のヘビーユーザーが際限なく来場し、会場は常に飽和状態。一般のゲストは長い待ち時間に疲れ果て、サービスの質は低下し、キャストは疲弊しました。ゲストのハピネスは地に落ち、ブランド価値は大きく毀損したのです」
彼の言葉は、熱を帯びていく。
「我々はその過ちから学び、多大な犠牲を払って年パスを段階的に廃止しました。一度捨てた毒を、なぜ今、この大阪の地で、自ら進んで飲まなければならないのですか!」
魂の叫びだった。プロジェクトの哲学を守るための、最後の抵抗だった。
しかし、吉本は鼻で笑った。
「毒? 戯言も大概にせえよ、センセイ」
吉本は一歩前に出ると、鼠園を威圧するように見下ろした。
「あんたの言うとることは、しょせん、たらふく儲けとる金持ち企業の道楽や。こっちは火の車なんやぞ。赤字になったら、あんたがポケットマネーで責任取ってくれるんか? あぁ!?」
恫喝。彼の得意技だった。
「それに、庶民はな、高うて一回しか行けん夢の国より、安うて何回でも来れるお祭り広場の方が、よっぽど嬉しいんや! あんたに、汗水たらして働く庶民の気持ちがわかるか!」
「わかります!」鼠園は即座に言い返した。「わかるからこそ、言っているんです! たった一度の来場でも、その一日が人生最高の思い出になる。それが我々の仕事のはずだ! 安かろう悪かろうの体験を際限なく提供して、ゲストを、そしてこの万ミャクを愚弄するような行為は、私には絶対に認められない!」
二人の視線が、火花を散らして激突する。
夢を創る男と、夢を食い物にする男。決して相容れない二つの正義が、そこに存在した。
吉本は、ふっと息を吐くと、最後のカードを切った。
「もうええわ。これは決定事項や」
彼は冷酷に言い放った。
「この年間パスポートは、ワシの公約でもある。地元の皆さんへの、ワシからのプレゼントなんや。これ以上、ワシの顔に泥を塗るようなら――」
吉本は、鼠園の胸を人差し指で突き、地を這うような声で言った。
「――あんたには、このプロジェクトから降りてもらうことになるで」
それは、最終通告だった。
事務総長が、震える声で形ばかりの採決を促す。
「えー、それでは、この年間パスポート導入にご賛成の方は挙手を」
鼠園以外の全員の腕が、まるで操り人形のように、だらりと上がった。ある者は吉本に媚びるように、ある者は諦めきった表情で、またある者は鼠園から目を逸らしながら。
完全な敗北だった。
鼠園の心の中で、何かが音を立てて崩れ落ちた。それは、このプロジェクトに対する、最後の、ほんのかすかな希望の欠片だったのかもしれない。
会議が終わり、役員たちが蜘蛛の子を散らすように去っていく。
鼠園は、自分の席に縫い付けられたかのように、動けなかった。
パンドラの箱が、開けられてしまった。
これは単なる経営判断のミスではない。プロジェクトの魂を、見せかけの数字と引き換えに、悪魔に売り渡す契約だ。
これから起こるであろう、現場の崩壊、ゲストの悲鳴、そして取り返しのつかない結末が、彼の脳裏に鮮明に映し出されていた。
破滅へのカウントダウンが、今、始まった。
鼠園は、崩れ落ちた瓦礫の中から、一つの決意を拾い上げる。
――ならば、墜ちるところまで墜ちるがいい。
――その地獄の底で、お前に最後のお仕置きをするのは、この俺だ。




