第3章:奪われたプロジェクト
地盤対策という名の時限爆弾を抱え込まされた鼠園だったが、彼はまだ諦めてはいなかった。物理的な土台に欠陥があるのなら、それを補って余りあるほどの完璧な「体験」を設計すればいい。その心臓部となるのが、彼がディズ・リゾートで培ったノウハウのすべてを注ぎ込んで設計している、次世代型の来場者管理・予約システムだった。
それは、単なる入場整理のためのツールではない。
来場者がゲートを通過した瞬間から、そのゲストのスマートフォンが「魔法の杖」に変わる。AIがリアルタイムで会場の混雑状況を分析し、人気のパビリオンへの最適なルートや待ち時間の少ないアトラクションを提案する。レストランの予約、限定グッズの購入、迷子になった子供の位置情報まで、すべてが指先一つで完結する。ゲスト一人ひとりに寄り添い、ストレスを限りなくゼロに近づけ、ハピネスを最大化する――いわば、万ミャク会場全体を司る、巨大な魔法の設計図だった。
「このシステムさえあれば、我々はゲストに最高の体験を約束できる。これこそが、大阪万ミャクを歴史的な成功へと導く鍵なのです」
プロジェクトの中核メンバーが集まる戦略会議。鼠園は熱を込めて語っていた。スクリーンには、洗練されたUIのデザインと、魔法のように滑らかに連携するシステムの概念図が映し出されている。彼のプレゼンテーションに、若い職員たちは目を輝かせ、技術担当の役員たちも「これは素晴らしい実現できれば革命的だ」と感嘆の声を漏らしていた。
開発を担うのは、ディズ・リゾートのシステムも手掛けた、国内最大手のIT企業。すでに何度も打ち合わせを重ね、実現へのロードマップは完璧に描けていた。あとは、この会議での最終承認を得るだけだった。
その希望に満ちた空気を、無遠慮に切り裂く声が響いた。
「で、その魔法とやらに、なんぼ金かける気や?」
会議室の隅で腕を組み、退屈そうに聞いていた吉本ごうぞうだった。
事務総長が、おずおずと見積金額を口にする。それは国家プロジェクトの心臓部としては妥当な、しかし絶対額としては決して安くはない数字だった。
吉本は、待ってましたとばかりに口の端を歪めた。
「アホか。そんな大金、東京の大企業にみすみすくれてやるんか。もっと安うて、ええもんがあるわ」
そう言うと、彼は傍らに控えていた秘書に目配せした。秘書は慌てて数枚の資料を配り始める。それは、申し訳程度に会社概要が記された、素人目にも安っぽいパンフレットだった。
社名は「株式会社デジタル浪速」。
大阪の片隅に本社を置く、設立数年の小さなIT企業。実績欄には、地元の商店街のホームページ作成や、町内会の会計ソフト開発といった、取るに足らない経歴が並んでいるだけだった。
「吉本先生、失礼ながら、このような実績のない企業に、数千万人の来場者が見込まれる国家プロジェクトの基幹システムを任せるのは、あまりにも無謀です」
鼠園は、怒りを抑え、あくまで冷静に指摘した。
「無謀やと?」
吉本は椅子にふんぞり返り、鼠園を睨みつけた。
「このデジタル浪速はな、ワシの地元で頑張っとる、未来ある若者たちの会社なんや。こういう企業を育ててやるのが、政治家の仕事とちゃうんか? それともあんたは、いつものツレの東京の大企業と裏でなんか約束でもしとるんか? あぁ?」
まただ。論点のすり替えと、人格攻撃。彼の常套手段だった。
「個人的な関係など一切ありません。これは純粋に、プロジェクトの成功確率の問題です。このシステムは万ミャクの心臓です。もしこれが止まれば、すべてが止まる。それは、ただの機会損失では済みません。数百万、数千万のゲストの信頼を裏切る、取り返しのつかない大惨事になる!」
鼠園の声に、悲痛な響きが混じる。
だが、吉本の耳には届かない。
「大げさなやっちゃのう。だいたい、この会社の社長はな、『その東京の会社の半額で、もっとええもん作ります』言うとるんやぞ。半額や! これで浮いた予算を、もっと見栄えのするパビリオンに回した方が、よっぽど国民は喜ぶわ!」
半額――その言葉は、コスト削減を至上命題とする役員たちの心を、悪魔のように揺さぶった。品質やリスクよりも、目先の数字が優先される。誰もが吉本の暴論の危うさに気づいていながら、その魔力に逆らえない。
事務総長が、助けを求めるように鼠園を見た。しかしその目は「頼むから、ここは引いてくれ」と懇願していた。
「鼠園君、まあ、吉本先生のおっしゃることも一理ある。地元の企業を育成するという大義名分も立つし」
政治なんだ、と声なき声が言う。
鼠園は、ゆっくりと会議室を見渡した。誰も、彼と目を合わせようとしない。昨日まで彼のプランを絶賛していた者たちも、今は貝のように口を閉ざしている。
決定が下された。
大阪万ミャクの心臓部は、なんの実績もない、ズブの素人集団に委ねられることになった。
鼠園は、自分の体から、何かがごっそりと、乱暴にもぎ取られていくのを感じた。それは、ただのプロジェクトではない。彼が信じる「ゲスト・ハピネス」という哲学そのものだった。
会議が終わり、人々が逃げるように退出していく中、鼠園は一人、席を立てずにいた。スクリーンには、彼が夢見た魔法の設計図が、虚しく映し出されたままだ。
その彼の肩を、ポンと叩く者がいた。
吉本だった。
「センセイ。これが現実ちゅうもんや。あんたの夢物語は、ネズミの国の中だけでやっときなはれ」
耳元でそう囁くと、吉本は満足げな笑い声を残して去っていった。その背中からは、勝利者の傲慢と、プロジェクトを私物化する者のどす黒い欲望が滲み出ていた。
一人残された会議室で、鼠園は固く、固く拳を握りしめた。爪が手のひらに食い込み、血が滲む。
――一つ、また一つと、私の夢に泥を塗ってくれる。
――いいだろう。ならば見ていろ。
――お前が奪ったそのプロジェクトが、いずれお前自身を破滅させることになる。
怒りが、彼の心を支配していた。だがそれは、もはや単なる怒りではなかった。
それは、すべてを賭けて巨悪を討つと誓った男の、鋼鉄の決意となっていた。




