第24章(最終章):夢の跡地に吹く風
あの、歴史的な住民投票から、五年。
かつて「夢の墓場」「負の遺産」とまで呼ばれた、大阪湾岸の広大な土地は、すっかりその姿を変えていた。
そこに、摩天楼のようにそびえ立つタワーホテル群も、きらびやかなカジノも、巨大なショッピングモールも、ない。
あるのは、どこまでも広がる、青々とした芝生の丘。
点在する、個性的なデザインの小さなカフェやアトリエ。
週末になると、地元の農産物やアート作品を売るマーケットで賑わう、開放的な広場。
そして、そのすべてを、ゆったりと通り抜けていく、潮の香りを運ぶ、心地よい風だけだった。
ここは、『OSAKA CANVAS PARK』。
市民の手によって選ばれ、市民の手によって、少しずつ、育てられてきた、新しい形の公園都市だ。
その公園の、小高い丘の上に、私は立っていた。
すっかり白髪は増えたが、その眼差しは、五年前よりも、ずっと穏やかで、そして、深く澄んでいた。
私の足元では、若い母親に連れられた、小さな女の子が、覚えたての言葉で、空を指さしながら、楽しそうに笑っている。
遠くの野外ステージからは、まだ無名の、しかし、情熱に満ちたバンドの音楽が、風に乗って、微かに聞こえてくる。
それは、私が、あの公開討論会で語った、夢の光景、そのものだった。
「――相変わらず、儲かりそうにはない景色ですね、鼠園さん」
不意に、背後から、懐かしい声がした。
振り返ると、そこには、少し歳を重ね、すっかり落ち着いた雰囲気になった、渡辺が立っていた。彼は今、この公園を管理運営するNPO法人の、若き理事長を務めている。
「ああ。数字だけを見れば、大赤字のプロジェクトだ」
私は、悪戯っぽく笑った。
「だが、俺たちが測ろうとしたのは、金じゃない。『ハピネスの総量』だ。それなら、きっと、世界一の黒字を達成できているさ」
二人は、並んで、眼下に広がる風景を眺めた。
あの戦いの後、ドリームチームの仲間たちは、それぞれの道を歩んでいた。
黒沢は、シリコンバレーに戻り、今度は、環境問題という、地球規模の「バグ」と戦っているらしい。
氷室は、独立して、不正を許さない公正な会計監査事務所を立ち上げ、多くの若い企業を育てていた。
電堂は、なんと、住民投票での手腕を買われ、ある政党の選挙参謀に抜擢され、今や、永田町で、新たな「ショー」を仕掛けているという。
そして、あの最後の敵、橋小銭稼は。
彼は、住民投票での敗北後、潔く結果を受け入れ、すべての役職を辞して、政界を去った。今は、一人の弁護士として、地方の小さな町で、法律相談に乗る日々を送っていると、風の噂で聞いた。彼もまた、あの戦いを通して、何か、本当に大切なものを見つけたのかもしれない。
「鼠園さんは、これから、どうされるんですか?」
渡辺が、静かに尋ねた。
この公園が軌道に乗った今、私は、相談役という立場を、静かに退くことを決めていた。
私は、答えずに、空を見上げた。
渡り鳥の群れが、どこか、遠い次の目的地を目指して、力強く、羽ばたいていく。
「さあな。まだ、何も決めていない」
私は、穏やかに言った。
「だが、まあ、どこへ行っても、やることは同じだろうな」
――夢の残骸の中から、小さな希望の種を見つけ出し、それを、仲間たちと、少しずつ、育てていく。
それこそが、私が、人生を賭けて見つけ出した、唯一の、そして最高の「魔法」なのだから。
「じゃあ、そろそろ行くよ」
私は、渡辺の肩を、ポンと一つ叩くと、丘をゆっくりと、下り始めた。
私は、もう、振り返らない。
この場所の未来は、もう、渡辺たち、次の世代の手に、確かに、託されたのだ。
夕暮れの光が、私の背中を、優しく、包み込んでいく。
その背中は、かつて、たった一人で、巨悪に立ち向かった英雄のものではなく、すべてを終え、穏やかな日常へと帰っていく、一人の、名もなき男のものだった。
夢の跡地に、心地よい風が吹いていた。
それは、古い時代が終わり、新しい時代が始まるのを告げる、希望の風だった。
そして、その風は、この場所に生きる、すべての人々の心の中を、どこまでも、優しく、吹き抜けていくのだった。
(了)




