第22章:最後のショータイム
住民投票の告示から三週間。
大阪の街は、二つの未来像を巡って、かつてないほどの熱気に包まれていた。
橋小銭稼は、テレビや新聞といった巨大メディアを最大限に活用し、連日、「1兆円の未来」を市民に約束し続けた。彼の支持率は、依然として高く、大方の予想は、橋小派の圧勝を伝えていた。
一方、私たちは、メディアの力を借りられない中、徹底的な「地上戦」に打って出た。
渡辺は、地域のコミュニティを駆けずり回り、小さな対話集会を、日に何度も繰り返した。電堂は、SNSを駆使し、橋小陣営の流すフェイクニュースに対抗するための、ファクトチェック情報を拡散し続けた。
そして、私は、自らが「顔」となり、商店街の真ん中で、駅前で、マイク一本で、自分たちの信じる未来を、愚直なまでに訴え続けた。
だが、形勢は、依然として不利なままだった。
人々の心に深く刻まれた「1兆円」という言葉の魔力は、あまりにも強大だった。
そして、運命の、投票日三日前。
市民の最終判断の材料として、市の公会堂で、両陣営の代表による、公開討論会が開催されることになった。もちろん、その模様は、テレビで生中継される。
それは、私たちにとって、残された、最後の、そして唯一の、逆転のチャンスだった。
当日。
固唾を飲んで見守る満員の聴衆と、無数のテレビカメラ。その視線が突き刺さるステージの中央で、私と橋小は、初めて、直接、対峙した。
討論会は、序盤から、橋小の独壇場だった。
彼は、得意の弁舌で、経済指標や海外の成功事例といった、きらびやかなデータを次々と繰り出し、自らの計画の正当性を、雄弁に語った。
「鼠園さんの話は、美しい。しかし、それはただのポエムだ! 我々が必要としているのは、市民の腹を満たす、具体的なパンなのです!」
その分かりやすい言葉に、会場の一部からは、大きな拍手が沸き起こる。
対する私は、決して、感情的にはならなかった。
私は、氷室と黒沢が、夜を徹して分析したデータを元に、橋小の計画がいかに脆い砂上の楼閣であるかを、冷静に、そして論理的に、指摘し続けた。
「あなたの言う『パン』は、確かに魅力的でしょう。しかし、そのパンが、もし毒入りだったとしたら? そのリスクについて、あなたは市民に、何一つ説明していない」
だが、その誠実な訴えも、橋小の巧みなレトリックの前では、どこか地味で、退屈なものに聞こえてしまう。
討論会の残り時間は、あとわずか。
誰の目にも、勝敗は、明らかに見えた。
司会者が、最後の質問を、私に投げかけた。
「――最後に、鼠園さん。あなたは、この街の未来に、何が最も大切だとお考えですか」
これが、最後のチャンスだった。
私は、ゆっくりと、マイクを握りしめた。
そして、私は、手元の資料から、ふっと目を離した。
私が見つめたのは、橋小でも、司会者でも、テレビカメラでもなかった。
会場の隅で、固唾を飲んで自分を見守っている、渡辺や、商店街の仲間たち。そして、その先にいる、名もなき、大勢の市民たちの顔だった。
私は、静かに、語り始めた。
それは、もはや、討論ではなかった。
私が、人生を賭けて信じてきた、たった一つの哲学を語る、魂の告白だった。
「私が、この街で見た、最も美しい光景の話を、させてください」
会場が、静まり返る。
「それは、何もない、殺風景な空き地でした。そこで、地元の農家のおばあちゃんが、採れたてのトマトを、誇らしそうに売っていました。その隣では、若いストリートミュージシャンが、まだ誰も知らない、自分の歌を、懸命に歌っていました。そして、そのトマトを頬張り、その歌に耳を傾けていた、小さな女の子が本当に、幸せそうな顔で、笑っていたんです」
私の脳裏に、この一年間、仲間たちと見てきた、数え切れないほどの光景が、蘇っていた。
「橋小さんの言う、1兆円というお金は、確かに、素晴らしいものかもしれません。ですが、そのお金で、あのおばあちゃんの誇りを、買うことができますか? あの若者の情熱を、買うことができますか? そして、あの女の子の、たった一つの笑顔を、買うことができるでしょうか?」
私の声は、決して大きくはなかった。
だが、その一言一句が、不思議なほどの熱を帯びて、人々の心の、最も柔らかい場所に、深く、深く、染み込んでいった。
「私が信じる未来は、誰か偉い人が、上から与えてくれる、きらびやかな未来ではありません。
この街に生きる、一人ひとりが、自分の手で、自分の足元から、ささやかな幸せを、誇りを、そして、夢を、育てていける未来です。
トマトが、一つ、また一つと売れるように。
歌が、一人、また一人へと届くように。
その、小さくて、温かい光景の、数え切れないほどの積み重ねこそが、本当の意味で、この街を豊かにしていくのだと、私は、固く、信じています」
「経済効果という数字では、決して測ることのできない、その『ハピネスの総量』こそが、我々が、未来の子供たちに残すべき、唯一の、そして最高の財産なのではないでしょうか」
私は、語り終えると、深く、深く、頭を下げた。
一瞬の、沈黙。
その沈黙を破ったのは、会場の後方から、ぽつりと、しかし、はっきりと響いた、一人の拍手だった。
その拍手は、一人、また一人へと伝染し、やがて、地鳴りのような、割れんばかりの大喝采となって、公会堂全体を、激しく、揺さぶった。
それは、人々が、数字という名の魔力から解き放たれ、自らの心の中にある、本当に大切なものに、気づいた瞬間だった。
ステージの上で、呆然と立ち尽くす橋小の顔から、自信に満ちた笑みが、完全に消え失せていた。
彼は、初めて、悟ったのだ。
自分が、たった一人、たった一つの、決定的なものを見誤っていたということを。
――ショーの勝敗は、まだ、決まってはいなかった。
――いや、今、この瞬間、確かに、決したのかもしれない。
私の、人生を賭けた、最後のショータイムは、静かに、しかし、確かに、人々の心を、動かしたのだった。




