第2章:最初の屈辱
鼠園が初めて臨む「大阪万ミャク」の公式定例会議は、湾岸地区に建てられたプレハブの大会議室で開かれた。窓の外では巨大なクレーンが鈍重に動き、濁った灰色の空が広がっている。室内に漂うのは、安物のコーヒーの匂いと、誰にも解決できない問題を前にした澱んだ諦めの空気だった。
会議の進行役である協会の事務総長が、眠気を誘う単調な声で議題を読み上げる。
「――次に、議題の五番。会場B7地区の地盤対策について。地質調査の結果、当該地区の地下から、想定を超える高濃度のメタンガスが検出されております。これについて、技術部会からの報告を」
プロジェクターのスクリーンに、赤や黄色で危険箇所が示された地層の断面図が映し出された。複数の専門用語が並び、何人かの役員が気まずそうに咳払いをする。誰もが厄介事には触れたくない、という雰囲気が満ちていた。
その沈黙を破ったのは、鼠園だった。
「発言よろしいでしょうか」
凛とした声に、すべての視線が一斉に集まる。鼠園は静かに立ち上がると、役員たちを一人ひとり見渡しながら、落ち着いた口調で語り始めた。
「皆様ご存知の通り、テーマパークにおいて、ゲストの安全は、あらゆるエンターテインメントに優先される絶対の基盤です。夢の世界は、絶対の安全という土台の上でしか成立しません」
彼はディズ・リゾートでの経験を語った。たった一本のネジの緩みが、いかにしてゲストの信頼を、そして夢そのものを破壊するかを。
「このデータを見る限り、B7地区のリスクは看過できるレベルではありません。万が一にも、引火やガス噴出が起これば、それは単なる事故では済みません。大阪万ミャク、ひいては日本の信頼が、世界の前で地に落ちることになります」
鼠園はスクリーンを指し示し、具体的な対策案を提示した。最新のガス抜き工法と、二重三重の安全センサーを設置する、コストはかかるが最も確実なプランだ。彼の淀みない説明に、何人かが感心したように頷きかけた。空気が、少しだけ変わるかのように思えた。
その瞬間、部屋の隅の上座にどっかりと腰を下ろしていた男が、わざとらしく大きな音を立てて椅子を引いた。
吉本ごうぞうだった。
「なんや、東京から来たセンセイは言うことがご立派やのう」
ねっとりとした関西弁が、室内の空気を再び凍てつかせる。吉本は鼠園を頭のてっぺんから爪先までなめるように見ると、嘲るような笑みを浮かべた。
「夢? 安全? そんなお題目を唱えて、金が空から降ってくるんか? あぁ?」
「吉本先生、ですがリスク管理は」事務総長が恐る恐る口を挟む。
「やかましい!」
吉本の一喝で、事務総長は亀のように首をすくめた。
「あんたは東京のネズミの国で、予算を湯水のように使って遊んでただけやろ。ここは違うんや。限られた予算で、大阪の経済を回さんとあかんのや。あんたの言うその最新工法やらセンサーやら、一体いくらかかんねん。その金で、地元の業者が何社救えると思っとるんや!」
それは、議論のすり替えだった。安全の問題を、経済の問題へと巧みに歪曲させている。
「吉本さん、これはコストの問題ではありません。人の命と、このプロジェクトの根幹に関わる問題です」鼠園は冷静に反論した。
「素人は黙っとれ!」
吉本はテーブルを拳で叩いた。「だいたい、そのデータかてホンマかいな。大げさに言うて、高い工事を受注させようとしとるだけちゃうんか?」
「これは国内最高権威の地質研究所が出した公式なデータです」
「知るか、そんなもん! ワシはワシの知っとる優秀な地元の専門家を信じるわ」
吉本がパンと手を叩くと、ドアが開き、作業着を着た卑屈な笑いを浮かべた中年の男が入ってきた。吉本が経営する建設会社の、長年の協力業者である「なにわジオテック」の社長だった。
「先生、お呼びでしょうか」
「おう。このセンセイが、ここが危ない言うとるんやが、お前のとこやったら、もっと安うて安全にできるやろ?」
「へえ、お任せください。うちの独自工法でしたら、そのご予算の三分の一で、完璧にやってのけます。この程度のガス、昔からようあることですわ」
出来レースだった。鼠園が反論しようとするより早く、吉本は役員たちを見回した。
「ええか、みんな。東京から来た理想論者に、この大阪の未来を滅茶苦茶にされてええんか? 地元を信じ、地元を潤わせる。それがワシのやり方や。この件は、なにわジオテックに任せる。異論のあるやつはおるか?」
誰も、何も言わなかった。誰もが、巨大な権力に逆らうことの無意味さを知っていた。役員たちは鼠園から目を逸らし、手元の資料に視線を落とすだけだった。
四面楚歌。鼠園は、ディズ・リゾートでは決して味わうことのなかった完全な孤独と、腹の底が凍るような無力感を、この大阪の地で初めて味わった。
それは、単なる意見の対立ではない。
夢を創り出すための哲学そのものを、土足で踏みにじられたのだ。
鼠園は唇を固く結び、燃えるような視線で吉本を睨みつけた。
――これが、あなたのやり方か。
吉本は、そんな鼠園の視線をせせら笑うかのように受け流し、満足げに煙草の煙を吐き出した。
会議が終わった後、鼠園の胸に去来したのは、絶望ではなかった。
静かで、どこまでも冷たい怒りだった。そして、確かな覚悟だった。
ここは夢の国ではない。魑魅魍魎が跋扈する、現実という名の戦場だ。ならば、戦い方を変えるまで。
鼠園は、窓の外で鈍重に動くクレーンを見つめた。あの土台の下に、時限爆弾が埋め込まれていく。
最初の屈辱。私が、必ずお仕置きする。
彼の心の中で、反撃のゴングが、今、確かに鳴り響いた。




