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第16章:最初の敵、再び

 私たちの「株式会社ドリーム・ダスト・インキュベート」が、万ミャク跡地再生のための具体的な提案書を携え、大阪府庁の一室を訪れたのは、初冬の冷たい風が吹く日のことだった。


 私たちが提案したのは、巨大な箱モノを建てるのではなく、広大な土地を「キャンバス」に見立て、市民やアーティスト、中小企業が自由に表現し、ビジネスを試せる実験的な都市公園にする、という壮大なプランだった。


「――以上が、我々の提案する『OSAKA CANVASプロジェクト』の概要です」

 プレゼンテーションを終えた私は、正面に座る男の顔をまっすぐに見た。


 男の名は、安田。

 かつて大阪万ミャク協会で事務総長を務め、吉本の言いなりとなり、私を魔女裁判で吊し上げた、あの男だった。

 安田は、事件後に協会の要職をすべて辞任したが、その優れた「調整能力(=長いものに巻かれる能力)」を買われ、現在は、万ミャクの負債を清算処理するための特別法人の理事長という、新たな椅子に座っていた。いわば、この跡地の事実上の管理人であり、私たちの前に立ちはだかる、最初のゲートキーパーだった。


「なるほど。お話はよく分かりました」

 安田は、分厚い提案書を、まるで汚いものでも見るかのように指先でパラパラとめくると、ため息交じりに言った。


「相変わらず、夢のようなお話ですな、鼠園さん」

 その言い方には、棘があった。事件を経て、二人の立場は逆転したはずだったが、安田の私に対する態度は、以前と何ら変わっていなかった。


「夢ではありません。これは、この土地の価値を最大化するための、最も現実的なプランです」と私は冷静に返した。


「価値、ですか」

 安田は、鼻で笑った。

「鼠園さん、あなたには見えていないようだ。この土地の唯一の『価値』とは、それが莫大な『金』を生む可能性がある、ということだけなのですよ。ここに眠る負債は、1兆円を超える。市民の税金です。それを回収するためには、この土地を、一円でも高く売却するか、あるいは、固定資産税をがっぽり取れる巨大商業施設を誘致するしかない。あなたの言う、市民の公園だの、アートだの、そんなフワフワしたもので、1兆円の穴が埋まるのですか?」


 それは、正論のようにも聞こえた。

 だが、その正論こそが、万ミャクを失敗させた元凶だった。


 隣に座っていた氷室が、氷のように冷たい声で反論する。

「安田理事長。あなたは、短期的な経済的価値しか見ていない。我々のプランは、この土地に、持続可能な文化資本と、新たなコミュニティという、金銭には換算できない『未来の価値』を生み出すための投資です。その価値が、長期的には、商業施設を建てる以上の経済効果をこの街にもたらす、という試算も出ています」


「試算? 机上の空論でしょう」

 安田は、氷室の言葉を、まるで聞く価値もないとばかりに一蹴した。


「そもそも、あなた方に、この土地をどうこうする権限など、一切ない。あなた方は、ただの民間コンサルタント。我々は、法律に基づいて、この土地を最も高く買ってくれる相手を探すだけ。それ以上でも、それ以下でもない」


 議論は、平行線を辿るだけだった。

 安田の頭の中には、「前例」と「規則」、そして「責任問題」という言葉しかない。新しい挑戦をするリスクよりも、何もしないでいる方が、よほど楽で安全なのだ。

 彼の態度は、この国の多くの組織が抱える、根深い病そのものだった。


 会議が終わり、府庁の冷たい廊下を歩きながら、電堂が吐き捨てるように言った。

「クソっ! あのタヌキ親父、何も変わってねえ! 責任を取って辞めたんじゃなくて、ただ椅子を乗り換えただけじゃねえか!」


「仕方ありません」と渡辺が悔しそうに唇を噛む。「あの人たちにとって、一番大切なのは、市民の未来じゃなくて、自分たちの保身なんですから」


 まさに、見えない、しかし分厚い壁だった。

 吉本ごうぞうという、分かりやすい「悪」は去った。だが、その悪を生み出した、無責任で、事なかれ主義の「組織」という名の怪物は、今もなお、この場所に深く根を張っているのだ。


「敵は、吉本一人ではなかった、ということだ」

 私は、冬の空を見上げながら、静かに呟いた。

「我々の本当の敵は、人の心の中にある、変化を恐れる『弱さ』そのものなのかもしれない」

 どうする?

 誰もが、重い沈黙に包まれる。


 その沈黙を破ったのは、やはり私だった。

 私の目には、絶望ではなく、むしろ、新たな挑戦者を前にした時のような、静かな闘志が宿っていた。

「上から動かせないのなら、下から動かすまでだ」

 私は、仲間たちの顔を見回した。


「役人が動かないなら、市民を動かす。世論を、我々の味方につけるんだ。もう一度、ショーを始めるぞ。今度の舞台は、この大阪の街、そのものだ」

 最初の敵は、手強かった。


 だが、私は知っていた。

 どんなに分厚い壁も、たった一つの小さな亀裂から、崩れ始めるということを。

 その亀裂を、自分たちの手でこじ開けるのだ。

 戦いは、まだ始まったばかりだった。

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