第10章:牙城への潜入
作戦の第一段階は、敵の懐に眠る「心臓部」――すなわち、渡辺が発見した裏帳簿データを、いかにして安全かつ確実に入手するか、だった。
夢のチームが導き出した結論は、一つ。
物理的な接触は、リスクが高すぎる。すべてを、デジタル空間で完結させる。
「大阪万ミャク協会のサーバーは、予想通りザルだ」
ビデオ会議の画面の向こうで、黒沢がキーボードを叩きながら、まるでコンビニへ買い物にでも行くかのような気軽さで言った。
「吉本の息のかかったデジタル浪速が構築しただけあって、バックドア(裏口)が開きっぱなしだ。問題は、どうやって渡辺君に、その裏口からデータを転送してもらうかだ。下手に動けば、協会のシステム監視に引っかかる」
協会は今、情報漏洩を極度に恐れ、職員のPC操作ログを厳しく監視しているはずだ。USBメモリをPCに挿した瞬間、あるいは外部へデータを送信しようとした瞬間、アラートが鳴り、すべてが水泡に帰す。
「そこで、これを使う」
黒沢が画面に映し出したのは、一本の変哲もないボールペンだった。
「見た目はただのペンだが、こいつは俺が作った特殊なガジェットだ。PCのUSBポートに挿すと、自動的にキーボードとして認識される。そして、あらかじめプログラムされた超高速のキー入力を実行して、ターゲットのデータを抽出し、暗号化して、外部のクラウドストレージに送信する。人間が操作しているようにしか見えないから、監視システムはまず気づかない。所要時間は、わずか30秒だ」
まさに「魔術師」の仕事だった。
問題は、どうやってこの「魔法のペン」を、厳重な監視下にある渡辺の元へ届けるか、だ。
「それは、僕の出番だね」
トリックスター、電堂がニヤリと笑った。
「こういう時のために、広告代理店時代に培った『グレーな人脈』があるのさ」
数日後。
大阪万ミャク協会の経理部オフィス。渡辺は、心臓の音を周囲に聞かれてしまうのではないかと思うほど、激しい緊張に襲われていた。彼の机の上には、一通の宅配便で届いた郵便物がある。差出人は、彼がかつて資料請求したことがある、どこにでもある資格予備校。中には、パンフレットと共に、景品だという一本のボールペンが同封されていた。黒沢が言っていた「魔法のペン」だ。
(やるしかない)
電堂が描いたシナリオは、こうだ。
協会サーバーのシステムメンテナンスが、深夜に行われる。そのわずか10分間だけ、監視システムが一時的にオフになる。チャンスは、その一瞬だけ。
渡辺は、病気の母親の看病という口実で、残業を申し出ていた。オフィスには、彼と、もう一人、気心の知れた同僚しか残っていない。
時計の針が、運命の時刻を指す。
渡辺のスマートフォンの画面に、黒沢から『ショータイムだ』という、ただ一言のメッセージが届いた。
「ごめん、ちょっとコピー取ってくる」
渡辺は、平静を装って席を立つと、わざと大量の書類を抱え、経理部のサーバーが置かれている資料室へと向かった。心臓が張り裂けそうだった。
資料室のドアを閉め、内側から鍵をかける。
彼の目の前には、無数のケーブルとランプが点滅する、巨大なサーバーラックがあった。ここが、吉本の牙城の、まさに心臓部だ。
彼は、震える手で「魔法のペン」を握りしめると、メンテナンス用のUSBポートに、ゆっくりと、しかし確実に差し込んだ。
東京の、鼠園の司令室。
巨大なモニターには、黒沢が操る、無数の緑色の文字列が滝のように流れ落ちていた。
「来たぞ。ゲートが開いた」
画面の向こうの黒沢の声が、緊張に強張る。
「渡辺君、今だ! ペンのスイッチを!」
渡辺は、ペンの頭をカチリと一度だけノックした。
その瞬間、鼠園のモニターの片隅で、ダウンロードを示すプログレスバーが、猛烈な勢いで伸び始めた。
10%30%70%。
それは、ただのデータではなかった。吉本の悪事を暴くための、正義の弾丸が、今、装填されていく。
その時だった。
「おい、渡辺? 資料室で何してるんだ?」
ドアの向こうから、残っていた同僚の声がした。ノブが、ガチャガチャと音を立てる。
「鍵なんかかけやがって、どうしたんだよ?」
渡辺の全身から、血の気が引いた。
プログレスバーは、まだ90%。あと、数秒。その数秒が、永遠のように長い。
「渡辺! 開けろ!」
ドアを叩く音が、激しくなる。
98%99%。
そして――100%。
『転送完了。ペンを引き抜け!』
黒沢の叫びと同時に、渡辺はペンを引っこ抜き、何食わぬ顔でドアの鍵を開けた。
「ご、ごめん! ちょっと考え事してて」
「なんだよ、心配させやがって」
同僚は、訝しげな顔をしながらも、それ以上は追及してこなかった。
渡辺は、自分のデスクに戻ると、震える足で椅子に崩れ落ちた。全身が、冷たい汗でびっしょりだった。
東京の司令室では、歓喜の声が上がっていた。
「やった! やったぞ、鼠園さん!」
電堂が、画面の向こうで拳を突き上げる。
「手に入れた! 吉本を地獄に送る、片道切符だ!」
鼠園は、モニターに映し出された、無数の会計データが並ぶファイルを見つめていた。
それは、吉本ごうぞうという怪物が築き上げた、欲望の牙城の設計図だった。
これから始まるのは、この設計図を元にした、緻密な解体作業だ。
「黒沢、氷室さん、分析を頼む」
鼠園の声は、興奮を抑え、鋼のように硬質だった。
「電堂、最高の舞台を用意しろ」
牙城への潜入は、成功した。
反撃のショーは、今、静かに第二幕へと移行する。




