第1章:夢の魔法使い、大阪へ
雨上がりのアスファルトがパステルカラーの光を反射する、夢と魔法の国。日本最高のテーマパーク「ディズ・リゾート」の閉園後、静寂を取り戻した城前の広場に、一人の男が立っていた。
男の名は、鼠園。
この国を「ただの遊園地」から「訪れる者すべてが物語の主人公になれる場所」へと昇華させた、伝説のプロデューサーである。
彼の仕事は、閉園後に始まる。鋭い観察眼で、昼間の喧騒が残したわずかな痕跡を拾い上げていく。ポップコーンワゴンの配置がゲストの動線をわずかに滞らせていないか。夜のパレードを待つゲストのために、あと数センチ街灯の角度を調整すれば、より温かい光が届くのではないか。彼の視線は、来場者の誰も気づかないような細部にまで注がれる。それこそが、魔法の正体だと信じているからだ。
「鼠園さん! こんなところにいたんですか」
駆け寄ってきた若いキャストが息を切らしながら言う。
「また何か見つけました?」
「ああ、少しだけね」
鼠園は穏やかに微笑むと、キャストの肩を叩いた。
「今日の君の笑顔は最高だった。君が魔法をかけたゲストは、きっと明日からも頑張れるだろう。ありがとう」
キャストの顔が、誇りと喜びにぱっと華やぐ。
鼠園の哲学は、常にシンプルだ。
――利益は、ゲストのハピネス(幸福)がもたらす雫だ。
ゲストが心から幸福を感じれば、その感動は自然と利益となって返ってくる。数字は結果であり、目的ではない。この哲学を二十年以上貫き、彼はこの夢の国を誰にも真似できない王国へと育て上げた。
そんな彼に、国からの勅命ともいえるオファーが届いたのは、三ヶ月前のことだった。
「『大阪万ミャク』の現場統括プロデューサーに、ですか」
政府関係者が並ぶ重苦しい応接室で、鼠園は静かに問い返した。国家の威信をかけた巨大プロジェクト。しかし、彼の耳に届いていたのは、建設の遅れや予算超過といった芳しくない噂ばかりだった。
「君の力が必要なんだ、鼠園君」
初老の男――万ミャク協会の会長が、すがるような目で言った。
「君がディズ・リゾートで成し遂げた奇跡を、大阪の地でもう一度起こしてほしい。この国の未来のために」
未来。その言葉に、鼠園の心が動いた。
自分が作り上げてきた夢は、高いチケットを買える者だけが享受できる、囲われた楽園の中の夢だ。だが、万博は違う。もっと多くの、あらゆる人々に、この国の未来と希望を見せるための舞台じゃないのか。子供たちが胸を躍らせ、世界中の人々が驚嘆するような、本物のショーを創り上げる。それは、自身のキャリアの集大成にふさわしい挑戦に思えた。
「わかりました。お受けします」
その返事を聞いた瞬間、それまで神妙な顔つきだった男たちの顔に、安堵と打算の入り混じった笑みが浮かんだのを、鼠園は見逃さなかった。
そして今日、鼠園は東海道新幹線のぞみの窓から、流れゆく景色を眺めていた。手には分厚い万ミャクの計画資料。しかし、ページをめくるたびに、彼の眉間の皺は深くなっていった。資料に並んでいるのは、経済効果や目標来場者数といった無機質な数字ばかり。そこに「ゲスト」の顔はどこにも見えなかった。あるのは「消費者」や「ターゲット」という空虚な言葉だけだ。
(何かが、根本的に間違っている)
不安が胸をよぎる。だが、もう後戻りはできない。自分がこの流れを変えるのだ。数字ではなく、人の心で動くプロジェクトにしてみせる。
新大阪駅に降り立つと、粘りつくような湿気と、喧噪が鼠園を包んだ。タクシーで湾岸地区にある万ミャク協会のプレハブ事務所へと向かう。車窓から見える建設現場は、巨大なクレーンが林立してはいるものの、どこか活気に乏しく、まるで巨大な骸が横たわっているかのように見えた。
「ここが、私の新しい戦場か」
プレハブの安っぽいドアを開けると、タバコの煙と怒号が渦巻いていた。
「だから予算が足らん言うとるんや!」
「知るか! それを何とかするのがお前らの仕事やろ!」
夢を創る場所とは到底思えない、殺伐とした空気。その喧騒の中心に、ふんぞり返って座る一人の男がいるのを、鼠園は見つけた。
その男こそ、この万ミャクを裏で牛耳る大物政治家、吉本ごうぞうだった。
吉本と目が合った瞬間、鼠園は直感した。この男は、自分がこれまで対峙してきたどんな「困難」とも異質だと。これは、夢を食い物にする怪物だと。
鼠園は、背筋を伸ばし、濁った空気の中をまっすぐに進んだ。
これから始まるのは、魔法の国のやり方が一切通用しない、現実との戦いだ。
だが、彼は逃げない。子供たちが見る未来の夢を、欲望の怪物に食い荒らさせるわけにはいかない。
「本日付で現場統括プロデューサーに着任しました、鼠園です。皆さん、最高のショーを創り上げましょう」
凛とした声が響き渡り、室内の喧騒が一瞬だけ静まった。
誰もが値踏みするような目で、この場違いな理想主義者を見つめる。吉本は、鼻でフンと笑うと、面白そうに鼠園を睨みつけた。
夢の魔法使いと、欲望の怪物の長い戦いは、今、静かに幕を開けた。




