幕間 使用人の日記
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聖歴1372年 第5月 8日
朝、ヴァルド様はいつものように庭で木剣を振っておられました。
今日も誰とも言葉を交わさず、ただ黙々と。
肩の上下に無駄はなく、呼吸さえ見えないような静かな動き。
まるでヴァルド様ご自身が、よく研がれた刃のよう。
誰にも抜かれぬまま、ひとり鞘の中で眠り続けているような……そんな気がするのです。
他の使用人たちは「また始まったよ」と、時折小声で笑っています。
でも私は、そんなふうに思えません。
陽の光を受けて、ヴァルド様の髪が黒曜石のようにきらめいていました。
このあたりでは珍しい漆黒の髪と瞳。
その深い深い闇色は、目を合わせるだけで吸い込まれてしまいそう。
それでいて、底に小さな寂しさがある気がして。
だから、私はついつい見つめてしまうのです。
昼食の席も、いつも通りでした。
カイ様の武勇で盛り上がり、ヴァルド様の名は一度も出てきませんでした。
ヴァルド様は、ただ黙って食事を口に運ぶだけ。
咀嚼の音すら立てず、銀器を持つ手は恐ろしいほどに整っていて、それがかえって浮いて見えました。
本当は、お話したいのです。
「おいしいですか」とか、「今日はお天気がいいですね」とか。
でも、使用人が主に向かって馴れ馴れしいと思われたら、それこそクビです。
それでも、ほんの少しだけ、声をかけられる機会を探してしまいます。
だって、あの深い黒の瞳に、ほんの一滴でも温もりが灯る瞬間が見たいのですから。
聖歴1372年 第5月 9日
いま、何を書けばいいのか、正直わかりません。
それほど、私の頭の中はぐちゃぐちゃで。
でも、こうして文字にしていけば、少しは整理できるかもしれません。
午前中のことでした。
ヴァルド様が、私に「絵のモデルになってくれ」と声をかけてくださったのです。
思わず、耳を疑いました。
だってあのお方が、あの無口で冷たいと噂されるヴァルド様が。
舞い上がってしまいました。
絵のモデルなんて生まれて初めてで、それがヴァルド様の描く絵だなんて。
嬉しくて、でも同時に信じられなくて。
それでも少しでも綺麗に見えるように、髪を整えて、そっと笑ってみたんです。
その瞬間ヴァルド様が、苦しみだしました。
大きな声を上げてその場に崩れ落ち、私はもう頭が真っ白になりました。
なのに、その後で目を開けたヴァルド様は、まるで別人のようでした。
あの冷たい瞳が、あんなにも優しくて。
私のことを、まるで宝物みたいに見つめてくださって。
夢を見ているのだ、と思いました。
でも、それは始まりに過ぎませんでした。
村に巨大な魔物が現れ、家が焼かれ、人々が逃げ惑い、ご主人様たちも立ち向かっては倒されて。
私も、覚悟しました。
ここで死ぬのだと。
けれど現れたのは、黒い雷を纏い、空を裂いて降り立つ、神話の戦士のようなヴァルド様でした。
一瞬でした。
誰も敵わなかったあの化け物を、たった一人で……まるで全てをなぎ払うかのように。
その背中があまりに眩しくて、鳥肌が立ちました。
本当に、本当に格好良かった。
私の憧れの人が、私を、皆を、守ってくれた。
その後のことは、夢のようでうまく覚えていません。
気がついたら抱きしめられていて。
唇に、柔らかな温もりが落ちて。
目の前で、堂々と「結婚します」と仰って。
信じられません。
信じたいけれど、信じきれない。
胸の奥が、ぽかぽかしています。
もしかしたら、夢かもしれません。
でも、たとえ明日すべてが現実に戻ってしまったとしても。
今夜だけは、この夢に、浸っていたいんです。
聖歴1372年 第5月 10日
(このページは空白だ)
聖歴1372年 第5月 11日
一日、飛ばしてしまいました。
昨日のことは、あまり詳しくは書きません。
書けません。
恥ずかしいから。
でも、とても幸せでした。
心が全部溶けてしまいそうなくらい。
本当に満たされた
あ、ヴァルド様が私を呼んでいます。
早く行かなきゃ。
私たち、旅に出ることになったんです。
この日記も今日でおしまいですね。
ヴァルド様。
今いきますから、ちょっとだけ待っていてくださいね。
最後にもう少しだけ、この気持ちを書き残したいから。
ヴァルド様、ヴァルド様、ヴァルド様。
ついついお名前を書いてしまいます。
私の頭の中は、もうあなたのことばかり。
大好きです。
愛しています。
お慕いしております。
ずっとずーっと、お傍に居られますように。
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日記はここで途切れている
どうやら日記の持ち主は とても幸せな日々を送っているようだ。
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あとがき
読者の皆様、ここまでお読みくださり、本当にありがとうございます。
第1章、いかがでしたでしょうか。
少しでもお楽しみいただけた方がいらっしゃいましたら、ぜひ、ブックマークや評価をいただけると嬉しいです。
皆様からの応援が、何よりの励みになります。
今後も『推しを救う物語』を全力で書いてまいります!




