第6話 家族との決別
窓から差し込む朝の光が、白いシーツにやわらかく反射している。
その中心で、俺の隣にうずくまるようにして寝ているのは、愛しのエミリアだった。
「……ん」
ふわ、とシーツが小さく膨らみ、彼女が寝返りを打つ。
寝癖がひと筋、栗色の髪の上で跳ねているのが可愛くて、俺は思わず笑ってしまった。
「ほんと、かっわいいなあ」
「……ふぇ!? い、いま何か仰いましたか……?」
がばっと身を起こしたエミリアが、目をぱちくりさせながらこちらを見る。
頬がほんのり赤い。
「可愛いって言ったんだよ。世界一な」
「も、もう……あの、あの、朝からそんな……うう」
枕に顔を埋めながら、耳まで真っ赤に染まる彼女の様子を見ていると、幸福で胸がいっぱいになった。
だけど、幸せに浸ってばかりもいられない。
「エミリア」
「……はい?」
「ちょっと、話したいことがある」
俺はシーツを巻き直しながら姿勢を正し、彼女の目を見て語りかけた。
「俺、旅に出ようと思うんだ」
「た、旅に……?」
エミリアは目を見開く。
驚くのも無理はない。
これまでずっと無口で何を考えているかわからなかったサイコ野郎が、急にデレデレになったかと思えば何の脈絡もなく「旅に出る」なんて言い出すんだもんな。
「そう。どうしても、やらなきゃいけないことがある」
「やらなきゃ、いけないこと」
エミリアは小さく瞬き、俺の表情を覗き込む。
「救いたい人がいる」
それが『推し』だとは言わない。
全てを打ち明ける勇気は、まだ今はなかった。
「あの夜、魔物からエミリアを救ったように、他にも救いたい人がいるんだ。だから、俺は行く」
「……」
「もちろん、一人で行く覚悟もできてる。けど、できれば――」
「――はい。わたしも、行きます」
即答だった。
彼女は真っ直ぐ俺の目を見て、はっきりとそう言った。
「私にできることなんて、本当に何もないかもしれませんが。それでも、ヴァルド様のことを手助けしたいんです」
微笑む彼女の笑顔が、胸をぎゅうっと締めつける。
「い、いやいやいや! とんでもないって! エミリアはただそこに存在してくれてるだけで素晴らしいんだから!」
首をぶんぶん横に振って否定する俺を見て、エミリアはくすりと笑った。
「なんて。少しかっこつけて言ってしまいましたが……本当は、ヴァルド様のおそばに居たいだけですよ」
「っ……ありがとう、エミリア。本当に、お前がいてくれてよかった」
「はい。私も、ヴァルド様のお隣に居られて幸せです」
「隣、か。くうっ……最高の奥さんすぎる……!」
「ま、まだ婚約中ですっ!」
エミリアはそう言って、ばふんと布団にもぐってしまった。
俺の朝は、最高に幸せな時間から始まった。
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「おーい、もう出るぞー」
旅支度を整え、屋敷の玄関口で扉に手をかけたところで、エミリアを呼ぶ。
「はい! 今行きます!」
屋敷の奥からパタパタと駆けてくるエミリア。
その両肩には大きな荷物が背負われている。
「すごい荷物……俺が持つよ」
「持っていく物が多くなってしまって……。
私の荷物なので、ヴァルド様に持っていただくわけには」
「いいから、ほら」
「…………そう、ですか? ありがとうございます」
エミリアは上目遣いでこちらの様子を窺うように、ゆっくりと荷物を下ろした。
俺はそれを受け取って肩にかける。
ずっしりとした重量感。
こんなもの、推しに持たせるわけにはいかんだろ。
「……ヴァルド様、本当によろしいので?」
出発しようとした俺を、エミリアが背後から呼び止める。
重要な部分が省かれているけど、何を言いたいのかはわかる。
家族に挨拶していかなくていいの? だ。
「いいよ。俺とアイツらとの関係は、エミリアもよく知ってるだろ」
「え、ええ。それはそうですが……」
もごもごと何か言いたげな様子の彼女。
……はあ。
しょうがない。
エミリアがそう言うなら、一言だけ挨拶してから出るか。
なんかアイツら、好きになれないんだよなあ。
多分俺の中には、ヴァルドだった時代の記憶も明確に残っていて。
それが家族への嫌な感情を引き起こしているんだろうな。
俺はしぶしぶ玄関から引き返し、ダイニングに向かった。
この時間はまだ、朝食を取っているはず。
「失礼します」
ガチャ、と扉を開けながら言う。
俺の予想通り家族全員が揃って食卓についており、こちらを見てフリーズした。
「皆様、今までありがとうございました。俺はエミリアと旅に出ます。それじゃ」
「え、ええっ、それだけですかっ?」
部屋から出ようとした俺に驚いた様子のエミリア。
それだけですかって……そうだよ。
他に何言うことあるの。
「ちょ、ちょっと待つんだヴァルド。いきなり旅に出るとは、どういうことだ」
そう言ったのは、ナプキンで額の汗を拭く父。
「どうもなにも、言葉通りですが。旅に出ます。以上」
「この……っ」
父は俺にあしらわれると、明らかに苛立った表情を出す。
そのまま怒鳴り声をあげるかと思ったが、ふーと大きく鼻から息を吐いて、何とか落ち着いた。
「た、旅に出るのは殿下に謁見してからでも遅くないぞ?
なあに、悪いようにはしない。一昨日の件を話せば、本当に爵位の一つや二つ――」
はあ、と俺は大きなため息をつく。
父はびくりと肩を震わせ、口を閉ざした。
「その話は昨日も断ったはずです。お気遣いは結構。
あなた方の栄光や利益のために生きる気はありませんので」
そう言って背を向けた、その時だった。
「待ちなさい!」
声を張り上げたのは母親だ。
「貴族のあなたが旅だなんて、そんな意味のない事する必要ないわ!
わかってるの? 豪華な食事も、綺麗な洋服も、柔らかい寝床も、何もないのよ!?」
「ええ、かまいませんよ」
「――っと……」
ぐい、と隣に立つエミリアを引き寄せる。
「エミリアさえ居れば、他に何もいりません」
にこっと笑って言い放つ。
正面向いてるから見えないけど、エミリア今顔真っ赤なんだろうな。
可愛いな。
いやほんと可愛いな。
「そんな……ただの使用人じゃない!
あなたのその実力があれば、もっと身分の高い、相応しい女性がたくさんいるわ!」
母の声が甲高く響く。
その言葉に、エミリアの肩が小さく揺れた。
恐れ、戸惑い、傷ついたその気配が、皮膚越しに伝わる。
その瞬間だった。
胸の奥で、何かが冷たく泡立った。
――カチリ。
何かが切り替わった音が、耳の奥で鳴る。
「……フザけるな」
低く、重い声が喉奥から漏れる。
冷たい鉄をひきずるような声音。
これはオレの声であって、俺の声じゃない。
エミリアがびくりと体を強張らせる。
母は肩をすくませ、父も、兄たちも言葉を失った。
「キサマ、今、ナニを言った?」
冷たい瞳で母を射抜く。
母は返事もせず、ただカチカチと歯を震わせていた。
「オレにとって、エミリアは世界そのものだ。キサマらの腐った価値観で測るな。
身分の高い女だと? そんなモノでオレが靡くと思ったか?
笑わせるなよ、ゲスな思考のゴミが」
「あ……あ……そ、そんな……つもり、じゃ……」
母の顔が青ざめ、言葉にならない声を漏らす。
だがオレはもう止まらなかった。
無意識のうちに右手を突き出し、指先に魔力を集中させる。
バチバチと、空間が焼けるような雷鳴が走る。
「キエロ、漆黒――」
「――ヴァルド様っ! だめですっ!」
エミリアの声が響いた。
目の前に飛び出したかと思えば、彼女は俺の首に両腕を回し、ぐいっと引き寄せる。
そのまま、ちう、と。
唇が重なった。
「……っ!」
頭の芯がじゅわっと熱くなる。
脳が一瞬、真っ白に溶けた。
な、なに?
え、ちょ、キス?
エミリアが!?
エミリアの方から俺にキスを!?
だ、だめだ、可愛い。
可愛いが強すぎる。
脳が、脳が壊れる。
甘い……いい匂い……やわらか……やば……。
「……ぷは。ヴァルド様、落ち着いてください」
「っあ……う、うん」
離れていく唇に尋常じゃない名残惜しさを感じつつ、俺はこくりと頷いた。
さっきまでの怒りが、さっと引いていくのがわかる。
漆黒の魔力が霧散する。
エミリアの潤んだ瞳が、間近にある。
ああ、可愛い。
この子、ほんとに、天使だ。
「可愛すぎて心臓止まるかと思った」
俺の言葉に、彼女は顔を真っ赤に染める。
「も、もう……っ、そういうの、あとにしてください」
「無理。今すぐ世界に感謝したい。父上、母上、俺をこの世に誕生させてくれて本当にありがとうございます」
「え、あ……ハ、ハイ……?」
ぴしっと一礼。
危なかった。
もう少しで、この家ごと奴らを消し炭にするところだった。
先ほど感じたあのゾッとするような深い破壊衝動は、恐らく俺の中に眠るもう一人の自分の部分だろう。
エミリアが止めてくれなければ、俺はとっくに壊れていた。
「ひあっ」
感謝を込めて彼女を強く抱きしめながら、ふうっと長く息を吐いた。
「俺の気持ち、わかってくれましたか?」
尋ねると、家族四人は首が取れそうなくらいぶんぶん上下に振った。
「そうですか、それは良かった。それでは改めて。
俺とエミリアは旅に出ます。これで名実ともに《《家族じゃなく》》なりますね」
俺が言うと、エミリアも一歩前に出る。
「これまで雇っていただいて、ありがとうございました。
私、ヴァルド様と幸せになります」
深々とお辞儀。
なんかズレてる気がするけど、礼儀正しくて偉いね。
「それでは、今までお世話になりました」
短く言い残し、俺とエミリアは屋敷の廊下を歩き出す。
その背中に、誰からの声もかからなかった。
けれど、それでいい。
ここからが、俺たちの本当の旅路の始まりだ。




