第5話 たとえ世界を敵に回しても
いつの間にやら、月が高く昇っていた。
部屋の灯りは点けないまま、天井を見上げてぼんやりと考える。
原作を、壊してしまったことについて。
エミリアを救った。
確かに、それは前世からの俺の悲願だった。
だけどその一歩によって、物語が大きく変わってしまう可能性もある。
この世界における『正史』を破壊したということは、今後何が起こるか、知っていたことがどこまで通じるかもわからない。
「でも……後悔はしてない。まったく」
エミリアの命がここにある。
それだけで、すべての選択に意味があった。
そう思っていた矢先。
「失礼いたします。ヴァルド様」
そっと、ドアが開いた。
そこにいたのは、ナイトドレス姿のエミリアだった。
ナイトドレス姿のエミリアだった?
な、なななななナイトドレス??
「え、エミリア……どうした?」
「なんだか、眠れなくて。それに……ヴァルド様の様子が、気になって」
小さく笑って、彼女はそっと俺の隣に腰を下ろす。
ああああ可愛いし良い匂いするねえええええ。
「ヴァルド様は、何だか急に人が変わったようです」
ぎくり。
その通りです。
さすがメイドさん、よく見てますね。
「……嫌か?」
「いいえ。最初こそ驚きましたが、もう慣れましたし。何より、その……私めのことを、か、か……」
「可愛い?」
「っう……そ、そうです。そう言ってくださって、とても嬉しく思います」
「……そうか」
彼女の声は柔らかく、真っ直ぐだった。
「俺、このままで良いと思うか?」
「ええ、もちろんです。どんなヴァルド様でも、私はお慕いしております」
俺の問いかけに、彼女は優しく笑って答えた。
その美しさに、きゅっと胸が締め付けられる。
「もしかして、何かお悩みですか?」
「……よくわかるな」
「ふふ、伊達にお仕えしてませんから」
沈黙が場に満ちる。
わかってる、俺のターンだよね。
悩み事を吐露する時間だよね。
でも、でもなあ。
と、うだうだ迷っていると、エミリアが口を開いた。
「大丈夫です。皆は、ちゃんとわかってますよ。ヴァルド様が本当はとてもお優しい方で、村を守ってくれた英雄だってこと。そして、何より――」
彼女が顔を近づける。
俺の耳元で、小さく囁いた。
「――とっても、カッコ良かったです」
鼓膜が揺れる。
瞬間、心が破裂した。
え? え? ちょっと待って、なにその破壊力……!
「かっわい……!」
思わず、口から漏れていた。
「ひぅっ……それ、やめてくださいっ」
エミリアは耳まで真っ赤に染め、両手で頬を押さえる。
「むねが、どきどきしちゃいます」
可愛い、可愛すぎる。
その姿勢、その声、その照れ隠し。
全部が尊い。
「あー、もうっ! 好きだ。大好き。尊すぎてどうにかなりそう。エミリアが俺の隣にいるって、それだけで世界に感謝できるレベル」
口をついて、愛の言葉が止まらなかった。
「可愛い」「愛してる」「天使」「もう一生傍にいて」。
そんな言葉を、俺は何度も何度も繰り返した。
「あぅううう……幸せすぎて、ダメです……」
顔を真っ赤にしながら、彼女は震える声で言った。
「ヴァルド様……もう、もう、私……」
澄んだ翡翠の瞳が潤む。
熱を帯びた視線を向けられ、俺だってもう限界だった。
俺はそっと、彼女の唇に口づけた。
「――ッ!?」
はむ、と。
エミリアの方からも、まるで甘噛みするかのような口の動き。
俺の理性が、崩壊する音がした。
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静かな寝息が、耳に心地よかった。
薄明かりに照らされた寝室。
ベッドの中、俺の腕の中でエミリアはすやすやと眠っている。
結い上げていた栗色の髪はほどけ、シーツの上に広がっていた。
布団の中から見える肩口は、ナイトドレスではない。
もちろん、メイド服でもない。
一糸まとわぬ白い肌。
結婚する。
そう俺が勝手に宣言した、ただのワガママにすぎないはずなのに。
彼女は、それを受け入れてくれた。
「んむ……ばるどさま……」
甘えるような寝言。
ふにゃっとした頬。
くすぐったそうに身じろぎして、再び静かに眠る。
……こんなの、守らなきゃ嘘だろ。
この子の未来を、幸せを、今度こそ俺の手で掴ませてやりたい。
と同時に、《《この子だけじゃないだろ》》という思いが強く脳裏に浮かぶ。
この世界は、神ゲー『ディアブロ・サーガ』。
無数の選択肢があり、複雑に分岐する物語。
だが、どのルートを通っても、エミリアに救いはなかった。
そして、彼女だけじゃない。
俺にはまだ、救わなければならない推しが多く存在する。
彼女たちはみな、原作で報われなかった。
死んだり、捨てられたり、忘れられたり。
そんな理不尽な運命を背負わされていた。
だが、変えられると知った。
エミリアを救えた今、きっと彼女たちも救うことができるだろう。
そのためには、俺は世界の敵にならなきゃならないかもしれない。
「……でも、まあ。別にいいな」
彼女たちを幸せにできるのなら。
勇者にも、魔王にも屈せず。
原作の筋書きすらねじ曲げ、無理矢理にでも幸せをもぎ取ってやる。
「たとえ世界を敵に回しても……なんてな」
安っぽいドラマのようなセリフを口に出し、思わず自分で笑ってしまう。
俺は視線を落とし、枕元で眠るエミリアの手を、そっと握る。
柔らかく小さなその手が、確かな生命の温度を持って俺の傍にある。
「全員、俺が救ってやる。覚悟しとけよ、クソ原作」
強く、静かに、誓った。
俺の物語はもう始まっている。
ここから先は、誰にも邪魔はさせない。




