第30話 両手に天使
鳥のさえずりが耳をくすぐった。
遠くで水の流れる音がする。
ぼんやりと浮かぶ意識が、じわじわと現実の輪郭を取り戻す。
「……生きてる」
木の香り。
柔らかい寝具の感触。
それらすべてが、生の実感を静かに胸へ染み込ませていく。
まぶたを開けると、見覚えのある木の天井が目に飛び込んできた。
山奥の神の里、その族長であるティアの家の一室だろう。
ティア。
その名を心の中で呼ぶと、戦いの記憶が断片的に脳裏をかすめる。
凄惨な戦いだった。
「……あっ! 起きた!」
勢いよく戸が開き、弾丸のように飛び込んできた影。
次の瞬間、胸元に柔らかい衝撃が走った。
「ヴァルドぉ~!」
抱き着いてきたのはリンだった。
全力でしがみつき、腕の中からこちらを覗き込む瞳がうるんで揺れている。
「リン……! 可愛いなあ、お前は」
わしゃわしゃ青髪を撫でる。
ああ、本当に。
推しってなんでこんなに可愛いんだろう。
癒されまくりだよ。
「えへへ、目さましてよかったぁ」
言葉の勢いそのままに、さらに抱きしめる力が増す。
それが妙に嬉しくて、俺は片手でリンを抱きしめ返した。
「――リンさん!」
ハキハキとした声が部屋に響く。
振り向けば、部屋の入り口にエミリアが立っていた。
「エミリア! もう体は大丈夫なのか!」
俺の問いに、彼女は微笑みを浮かべる。
「はい、一晩休んでもうすっかり。ヴァルド様が急いでベッドまで運んでくれたおかげですね」
「そうか、良かった。本当に」
エミリアはこくりと頷くと、ぷくっと頬を膨らませてリンに視線を向ける。
「リンさん……! ヴァルド様はまだ全快じゃないんですから、あまり負担をかけちゃ――」
「ヴァルドぉ……もっと撫でてぇ」
「おお。よーしよしよし、可愛いねえ」
言い終わる前に、俺とリンが笑い合う光景を目にして、彼女のこめかみがぴくりと動く。
じっと睨むその視線に、うっすらと怒気。
「……もう!」
その一言と同時に、エミリアもリンを押しのけて飛び込んできた。
勢いで肩がきしむほど強く抱き締められる。
「私だって……ずっとこうしたかったんです!」
涙声混じりの訴え。
結果、俺の上半身はエミリアとリンの両方に抱き着かれる形になった。
片方は頬をすり寄せ、片方は胸に顔を埋め、まるで修羅場……いやいや、天国だ。
「――コホン」
咳払いが、甘ったるい空気を真っ二つに裂いた。
全員がびくりと固まる。
「あ……や、やあ」
ドアの前に、月光を思わせる銀髪を揺らし、ティアが立っていた。
冷静な表情の奥に、わずかな呆れを滲ませている。
「……目が覚めたと思ったらこの様子ですか。第一、婚約しているのはエミリアさんだけだったのでは?」
リンは「あはは」と苦笑するが、耳の先は真っ赤だ。
「なんて、そんなことはどうでもいいですね」
表情を和らげたティアは、静かに歩み寄り、ベッドの傍らで立ち止まる。
そして深々と頭を下げた。
「このたびは、本当に……ありがとうございました。あの戦いから生きて戻ってこられたこと、それ自体が奇跡です」
俺は首を振る。
「良かったよ、何とかなって。本当に二人のおかげだ」
その言葉に、エミリアとリンの目が潤む。
次の瞬間、同時にわっと泣きながら抱き着いてきた。
「うわぁん! かっこよすぎるよー!」
「大好きです、ヴァルド様……!」
不意打ちのような全力の抱擁に、思わず顔が熱くなる。
俺の胸板に二人分の涙がじんわりと染み込んでいく。
ティアはそんな様子を見て、口元に柔らかな笑みを浮かべた。
「本当に、仲が良いのですね」
「うん、幸せだよ」
即答すると、ティアはほんの少し目を細めた。
「貴方様に救っていただいたこの命……私はこれからも、私の使命を全ういたします」
「……そうか」
ほんのわずかに落胆が胸をかすめる。
一緒に旅をできるのでは、と少しだけ期待してしまっていた。
いや、何の根拠もあったわけじゃないんだけどね。
エミリアもリンも、一緒に来てくれたからさ。
ま、でも、そりゃそうか。
ティアは神に仕える巫女さんだし、この一族の長だ。
そう簡単に里を離れるわけにはいかないよな。
「応援してるよ。ティアならきっと大丈夫」
俺は笑って返す。
原作では既にいなくなっているはずの彼女。
ここから先、どんな行動を取っていくのかは俺にもわからない。
けれど、彼女ならどんな困難が立ちはだかったとしても、乗り越えて行けるだろう。
……ただ、俺の希望を言わせてもらうなら。
ほんの少しでも、彼女の思考の中に『自分を大切にする』という要素が入ってくれていればいいな、と思う。
ティアは再び頭を下げ、「ありがとうございます」と礼を言い、続ける。
「もう少し安静にしておいてください。傷の治療は済みましたが、まだ体力は万全ではないでしょうから。……それでは、私は巫女としての仕事がありますので」
そして踵を返すティア。
カチャリ、と静かな音を立てて扉が閉まった。
ふと、左右の天使たちと目が合う。
期待のこもった眼差し。
「……来る?」
「ヴァルド~!」
「ヴァルド様……!」
再び抱き着き合戦が始まった。
エミリアは頬を染めながら微笑み、リンはぎゅうっと腕の力を強める。
はあ、本当に可愛い。
両手に花、いや天使だなあ。
――ガチャ。
不意にドアが開き、ジト目のティアが覗き込む。
「……くれぐれも、ご安静に」
俺たちは三人そろって背筋を伸ばし、「は、はい」と素直に返事をした。




