第28話 世界を穿つ
月の光が、山のふもとの平地を薄く照らしていた。
静寂は張り詰めた糸のようで、風が草を撫でるたび皮膚が粟立つ。
何もない開けた空間。
その中心に、彼女はいた。
ティア・カサンドラ。
銀糸の髪は夜気に揺れ、白の衣は水面のようにひらめく。
彼女は両の掌を胸前で重ね、観客のいない舞台に一人立ち、星々へと言葉を放っていた。
「女神ヒナよ。古より汝が涙、荒海を鎮めし証なり。我が身は器、命は灯。ひとときの光を、この地に降ろしたまえ……」
ひと振り、裾が月光をすくって弧を描く。
足先は砂利をすべらせ、円を描き、呼気とともに不思議な響きを奏でる。
「封ぜられし扉、運命の壁を穿つ楔とならん。身命を供物に、災いを裂く――」
これは舞だ。
剣の型でも、魔法の詠唱でもない。
生きている人間が、女神の力を顕現し、『終わり』を呼び寄せるためだけに編んだ、祈りの形。
「……綺麗だ」
心底、思った。
同時に、二度と見たくないとも思った。
そんな美しい彼女に歩み寄る俺は、音を消さなかった。
草が折れる音、砂利が噛む音、夜の湿り気を切る靴音を、あえてこの場に刻む。
彼女は薄く肩を震わせ、振り返る。
詠唱が一拍、途切れた。
「……どうして、ここに」
「舞をやめてくれ、ティア」
「これは……私の使命です。貴方がいくら止めようと、やめるわけにはいきません」
目は静かだ。
覚悟で凍っている。
しかし俺は、首を横に振った。
「そんな使命、俺は認めない」
「認めない……? このままでは、人大陸は地獄になります。勇者様も未だ発展途上。間もなく現れる魔族どもを、私以外の誰が止められましょう。……あと少しで、終わります」
彼女は顔を戻し、吸い込んだ息に言葉を乗せようとした。
――ヴゥゥゥゥン……
低く腹の底を震わせるような唸りが、夜気を裂く。
月明かりに照らされた空の一角が、水面のように揺らぎ、薄膜のような歪みが走った。
そこからじわりと闇が染み出す。
やがて、見えない刃で切り裂かれたかのように、空間に亀裂が入った。
それは花弁を逆再生するような動きで、ゆっくりと外へと開いていく。
――ザッ
最初に現れたのは、獣じみた重い足音。
地面が踏み抜かれて沈み、土煙が舞う。
――カラカラ
骨と骨とが擦れ合う、乾いた響きが続く。
――ブー……ン
低く不快な羽音が混じり、夜の静けさをさらに侵食する。
――ガシャン
鉄塊がぶつかるような重い金属音が、幾重にも重なった。
亀裂の奥から、影が溢れ出す。
四つ足の獣、骨の兵、翼を持つ龍、全身を鎧で覆った巨躯。
数は一体や二体ではなく、百でも二百でもない。
視界の端から端まで、魔族の群れが黒く埋め尽くしていく。
これがラグナ配下、魔王軍の軍勢。
「く……間に合いませんでした……!」
ティアの声が、かすれた息と共に漏れた。
「フシュル……」
吐き出される瘴気が夜を汚し、月光の色が鈍る。
軽い揺れが地面を走り、草の穂が一斉に身じろぐ。
その最後尾を割るように、細身の影が現れた。
乱れた白髪に紫の筋、尖った目の男。
瞬界のラグナ。
ざり、と音を立てて一歩進む。
額に汗が滲み、肩で息をしていた。
流石の奴も、この量の転移は骨が折れるのだろう。
だが俺を見つけた瞬間、犬歯を覗かせるほど口角が吊り上がった。
「……ハッ。ハハハッ、何てツイてんだ俺ァ。あくまで標的は勇者だが、一番殺したかったのはテメェだぜェ」
ははーん、俺に焼かれたの根に持ってんだな。
「テメェにはなァ……可能な限り、残酷な死を味わわせてやるぜェ」
殺意にねっとりとした愉悦を混ぜる、最悪の声。
隣でティアが短く息を呑む。
彼女は即座に視線を闇の群れへ戻し、言葉を紡ぎ直そうとした。
「――女神ヒナよ、我が命を――」
俺は手を伸ばし、彼女の肩に触れた。
「えっ……」
あたたかい。
生きている温度だ。
もう二度と、失わせない。
「見てろ」
低く吐き、ティアの前へと一歩踏み出す。
足裏に伝わる土のわずかな弾力。
丹田に溜め込んだ熱が全身を駆け巡る。
皮膚の下を奔る魔力は、もはや形を持った意思のよう。
「――獄雷衝」
漆黒が、夜を呑んだ。
天頂から地上へと、極大の雷柱が叩きつけられる。
先に訪れたのは、世界の輪郭が滲むほどの振動。
色が一瞬だけ抜け落ち、次いで空気が引き裂かれる破砕音。
その直後、腹の底を殴りつけるような衝撃が全身を貫いた。
黒い稲妻は何十もの枝を裂け目から生やし、魔族軍の心臓部を焼き抉る。
皮膚と肉が瞬時に灼け、鉄製の武具が高温で悲鳴を上げる。
瘴気混じりの魂が、逃げ場を求めて空へと霧散していく。
光とも闇ともつかぬ、形容のしがたい色が平地を一瞬だけ覆い、次の瞬間、それは音もなく灰となった。
陣形の核が抉れ、先ほどまであったはずの影がまるごと消えている。
数にして、全体の四分の一。
それだけの魔族が、この一撃で《《無かったこと》》にされた。
爆風の余波が押し寄せ、砂が荒波のように背丈を越えて舞い上がる。
俺は片手を払って風を裂き、ティアの前に防壁を作る。
砂塵が雨のように落ち、ようやく空気が静けさを取り戻す。
その静寂を破ったのは、魔族のざわめきの奥から漏れた、ひどく間の抜けた声。
「ハァ……?」
ラグナだった。
吊り上がった目が大きく開かれ、紫の毛がわずかに震える。
まるで理解が追いつかない、という顔をしている。
「なんて、力……」
ティアがポツリと漏らす。
俺は彼女の肩から手を放し、柔らかな頭をぽんぽんと撫でる。
「――続きだ、ラグナ」
見てろ。
もう、誰も傷つけない。
俺が世界の筋書きを変える時間だ。




