第22話 瞬界のラグナ
遺跡の出口を抜けた、その瞬間だった。
外気が肺に触れるよりも早く、空気全体がきしむような圧迫感が走り抜ける。
皮膚の表面を、ぞわりと逆立つ鳥肌が駆け上がった。
――ヴゥゥゥゥ……ン。
耳の奥に直接響くような低い唸り。
足元の大地がわずかに震え、砂粒が跳ねる。
視界の正面、何もないはずの空間がじわじわと黒く濁り、ゆっくりと渦を巻き始めた。
その渦は膨らみながら中心を裂き、黒い亀裂が現れる。
裂け目の奥は、底なしの闇。
「来た、か」
俺はそう呟くと、集中力を高めた。
裂け目の中心から、影がゆらりと這い出てくる。
「――ふいー……っぱこの距離の転移はこたえるなァ……」
コキ、コキ、と。
首を鳴らしつつ、ソイツは現れた。
細身でありながら異様に長い手足。
乱れた白髪には一本だけ紫の筋が走り、鋭く吊り上がった目が蛇のように細められている。
裂けた黒マントが不吉な音を立ててはためき、手には漆黒の長剣。
全身から漂う瘴気は重く、吸い込む空気すら苦く変える。
喉が焼けるようで、吐く息まで粘つく錯覚がした。
全員が、何も言えない。何もできない。
死に直面したとき、人間はこうなるんだろう。
くああ……と、男があくびしたのをきっかけに、勇者が先陣を切った。
「……何者、だ」
勇者はわずかに腰を沈め、低く問う。
視線は剣先のように鋭く、真正面から男を射抜いている。
男はその視線を愉快そうに受け止め、口元を吊り上げた。
薄い唇の端がさらに歪み、舌先が犬歯をなぞる。
金属を撫でるような、不快な音が耳の奥に残った。
「おうおう……勇者サマから直々のご挨拶とはなァ。光栄だぜ。俺ァ、魔王軍幹部――瞬界のラグナだ」
「瞬界の、ラグナ……」
勇者が名を復唱する。
その声は低く抑えられていたが、頬を伝う汗の一滴を俺は見逃さなかった。
感じ取っているのだ。
目の前の男が、確実に圧倒的な強者であることを。
これが、原作においてプレイヤーが初めて、『魔物』ではなく『魔族』に出会うイベント。
その二者に明確な区分は無いが、有する魔力の濃度や知性は比べ物にならない。
目の前の魔族――瞬界のラグナは、その魔族ひしめく魔王軍の中でトップクラスの実力を持ち、
「幹部が、わざわざ人大陸へ? ……魔王の指示か」
問いかけにラグナは鼻で笑い、舌打ち混じりに吐き捨てる。
「ケッ! 魔王だァ? ンな奴の命令なんざ聞くかよ」
その声音は湿り気を帯び、蛇が囁くように耳にねっとりと絡みつく。
ラグナはゆっくりと、手にした漆黒の長剣を肩へと担ぎ上げた。
刃が僅かに傾くたび、魔力が空気を歪ませ、空間の輪郭を揺らす。
そう、コイツは二つ名の通り『瞬間移動』の魔法を扱うチート野郎。
だから海や亜大陸を超え、魔大陸から人大陸へひとっ飛び……なんてイカれた芸当ができる。
もしコイツが魔王に忠誠を誓うような扱いやすい男なら、あっという間に人間は滅んでいただろうな。
「俺ァ、俺の意志でここに来たんだよ。お前の首を、取るためになァ」
「チッ……だろうな……!」
勇者が低く吐き捨てる。
「勇者サマの旅も……ここで終わりだぜェ!」
ラグナの声に合わせるように、漂う魔力がさらに濃くなり、空気全体が重く沈み込んだ。
まるで目に見えぬ鎖で、全員の足首が縛られたかのように。
リンは小さく息を呑み、エミリアは膝を震わせる。
俺はただ、剣の柄に手をかけた。
そして、ティアが。
俺たちの中で、ティアだけが、前に歩みを進めた。
淡い銀髪が肩先で揺れ、彼女の瞳には揺るぎない決意が宿っている。
「皆さん、ここは――」
……ああ、わかってる。
私に任せて、逃げてください。そう続けるつもりだろ?
この台詞が、原作における運命の分岐点だ。
二つある彼女の死亡パターンのうち、片方へと進むかどうかが、ここで決まる
実はこのダンジョンに出発する前から、彼女は神託でこの未来を視ていた。
遺跡から出た直後に魔族が襲来。
圧倒的な力の前に、勇者はあっけなく命を落とす。
その最悪の結末を回避する……いや、回避《《させる》》ためにこそ、彼女は遺跡への同行を志願したのだ。
そして、彼女の提案に何と答えるか、プレイヤーは選択することができる。
『逃げる』か、『たたかう』か。
逃げるを選べば、プレイヤーは無事に山を降り、仲間と合流できる。
だがその代償として、ティアは『自爆攻撃』により、ラグナもろとも帰らぬ人となってしまう。
これが、原作におけるティアの死亡パターンのひとつ。
たたかうを選べば、勇者とティアが共にラグナへ立ち向かう。
普通にストーリーに沿ってプレイしているだけだと、この時点でラグナに勝つことはまず不可能。
ほぼ間違いなく瞬殺される。
が、実は寄り道しまくって異常なほどにレベリングを重ねていれば、ラグナを退け、ティアを生かす未来もある。
俺は手を伸ばし、彼女が言葉を紡ぎ切る前に、その肩を強く押しとどめた。
「――えっ……?」
振り向いて、驚きに目を見開くティア。
俺はその視線を正面から受け止め、力いっぱい叫んだ。
「エミリア、リン、ティア! 下がってろ!」
言い放つと同時に、俺は迷いなく前へ踏み出した。
ブーツ越しに、足裏に伝わる土の硬さすら、これからの戦いの緊張を告げてくる。
剣の柄を握る手に力を込め、視線をまっすぐ勇者へと送る。
「やるぞ、勇者!」
これが俺の選択、強制戦闘ルートだ。
ラグナのステータスは、俺とほぼ同等。
ほんのわずかに奴に分があり、苦しい戦いになる。
だがここには勇者がいる。
俺には及ばないが、奴もまた確かな実力者。
この二枚看板なら、勝機は決して夢物語じゃない。
「当然だ」
勇者は短く応じ、剣を鞘から引き抜く。
金属が擦れる高い音が、張り詰めた空気をさらに鋭く研ぎ澄ます。
肩を並べた瞬間、互いの呼吸が自然と揃った。
対するラグナは、口角を吊り上げ薄く笑う。
その笑みは、まるで獲物を弄ぶ獣のそれ。
鋭い犬歯がちらりと覗き、ぞわりと背筋を嫌悪感が走った。
「おうおう……二人でかかってくるってか。上等だァ……面白ぇじゃねぇか」
その声が、地を這うように低く響いた次の瞬間。
ラグナの輪郭が、ふっと掻き消えた。




