第2話 裏ボスに転生してました
目を覚ますと、見慣れた天井が視界に映った。
静かだった。
耳鳴りも、眩暈もない。
体は自室のベッドに寝かされており、体の上には毛布が丁寧に掛けられている。
かすかに草花の香りがした。
恐らく、エミリアが色々と始末をしてくれたのだろう。
俺は体を起こし、壁際の本棚へ目をやる。
ぎっしり詰められた書籍の中から地理書を一冊抜き取り、パラパラと捲る。
〈世界に大陸は三つ。人族が住む大陸、亜族が住む大陸、魔族が住む大陸〉
〈それぞれの大陸は海を挟み、平衡と緊張の三極構造を成している〉
〈我々の住む人大陸は――……〉
そこに記された世界の構造を、俺は知っている。
全部、知っている。
これは間違いなく――
「――『ディアブロ・サーガ』だ」
声が震えていた。
出会ってから、俺の生涯のすべてを捧げた、あの伝説の神ゲー。
設定の奥深さ、キャラクターの魅力、選択肢とフラグの複雑さ。
開発着手から完成まで、20年を費やしたというのも納得の造りこみ。
どこを取っても完璧だったRPGの金字塔――ディアブロ・サーガ。
その世界が、目の前にある。
「マジ、か……マジなのか……!」
頬をつねる。
痛い。
夢じゃない。
VRでもない。
こんなリアルな仮想空間なんてありえない。
何より、俺にはこの世界で生きた18年間の記憶がある。
と同時に、前世。
日本の東京で引きこもりとして過ごしていた27年間の記憶も存在している。
俺が中学生の頃に――と言っても既に引きこもっており、学校には通っていなかったが――このディアブロ・サーガというゲームは発売された。
親に頼んで買ってきてもらい、それから生を終えるまでの13年間、このゲームのやり込みや情報収集に時間を費やしてきた。
まさに憧れの世界に、俺は今生きている。
「え、と……確かここに」
そして俺は机の引き出しを開け、そこに入っていた封筒を一つ取り出す。
つい先日、交流のある隣町の貴族から送られて来た書状。
内容はなんてことない、「最近どう?」の一行で済むような形式上のやり取りだ。
封筒の宛名を見ると、そこには。
「やっぱり……ヴァルド・レイヴンハルト、か」
口に出して確かめたのは、この体の持ち主の名前。
すなわち、この世界での俺の名前。
それは田舎貴族レイヴンハルト家の三男にして、のちにディアブロ・サーガの『裏ボス』として、武力の頂点に君臨する男の名前だった。
「ということは、だ。確認しなきゃならないのは……えーと、ステータス」
ここがゲームの世界だというのなら。
試しに呟いてみる。
次の瞬間、目の前にふわりと現れた半透明の黒いウィンドウに、見慣れたフォントの白文字。
間違いない、やり込んだあのゲームと何ら変わらない表示だ。
「おお、適当にやっても案外何とかなるもんだなあ」
俺は出現した自身のステータスを確認する。
――【ステータス】――
STR(筋力):D - 42
AGI(敏捷):D - 45
MAG(魔力):D - 40
VIT(耐久):D - 47
DEX(器用):D - 43
CHR(魅力):D - 44
「見事なオールDっと。悪くない、が……」
平凡、である。
一般的な庶民のステータスがEからGほど。
そこからすれば優秀な能力値だろうが、幼い頃から色々な教育を叩き込まれる貴族としてはいたって普通。
「てことは、今は『覚醒前』ってことだろうな」
原作ゲームにおいて、ヴァルドが敵として初登場する時のステータスがオールB。
このヴァルドというキャラは、とある出来事を経て狂戦士として覚醒する、という裏設定がある。
恐らくそのタイミングで、ステータスがDからBへ、爆発的に向上するのだろう。
ガチャ。
ふいに部屋の扉が開けられた。
入ってきたのはエミリア。
両手には洗面器と濡れタオルが持たれている。
「――ヴァルド様っ……!」
けれど彼女は俺の顔を見るなり、その場にそれらを放り出して駆け寄り、半べそをかきながら俺に抱きついてきた。
「よかった……よかった……っ!」
ぎゅう、と。
腕の中に、柔らかくてあたたかいものが収まる。
細い肩、涙声、震える吐息、いい匂い、うっ……わ。
うわあああああああああああ!
どどどどどどどどどどどうしよう!?
ちょっ、えっ、いや、マジで!?
抱きつかれてるの!?
推しに!?!?
「っっっ、やばい、ちょっとまって、み、水! 水こぼれてるから!」
ベッド脇の床に広がる水たまりを言い訳に、俺は慌ててエミリアを引きはがす。
そうして理性をかろうじて取り戻す。
やばかった、今のままじゃいろんな意味でやばかった。
「はっ!? も、申し訳ありません! すぐ片付けます!」
エミリアは顔を真っ赤にして飛び退き、モップを取りに出て行った。
「…………ふー」
落ち着け俺。
大丈夫、まだ大丈夫、たぶん。
胸に残った温もりを両腕で感じながら、俺は息を整えた。
そりゃ理性が吹き飛ぶのも仕方ない。
だって彼女は、俺の『推し』なんだから。
「失礼します」
ノックもなく扉が開き、エミリアが再び戻ってきた。
手にはモップ。
頬はまだほのかに赤い。
「すぐに片付けますので」
彼女はそそくさと床を拭き始める。
けれどふと、こちらをちらりと見て、小さな声で呟いた。
「汚してしまい、本当に申し訳ありません」
そのしょんぼりした顔を見て、俺は。
「可愛い……」
思わず、声に出していた。
「っ!?」
エミリアの肩がびくっと跳ねる。
ガシャーン!
モップを床に落とし、彼女は静止する。
「か、可愛い……!? いえ、あの、え……え?」
顔が一気に真っ赤になり、目を潤ませながらもおずおずと、袖で口元を隠して、上目遣い。
「ま、まさかとは思いますが……その……わ、私めの、ことで……?」
「他に誰がいるんだよ」
限界だった。
言葉が止まらなかった。
「お前だよ! エミリア! エミリア・モルフィードが可愛いって言ってんだよ!」
「ひうっ!?」
叫びながら、俺は彼女を抱きしめていた。
その細い体を、ぎゅううううううっと力いっぱい。
目を白黒させるエミリアに構わずに、俺は愛を吐き出す。
「可愛い可愛い全部可愛い! 普段はしっかり者で有能なのに、褒められたら照れてしどろもどろになるの最高に可愛い! 涙目も可愛い! 上目遣いも可愛い! ぜんぶさいっこうに可愛い! マジで愛してる!!」
「や、やめっ……も、もうやめてくだひゃ……」
彼女は顔を真っ赤にしながら、床にぺたんと座り込み、へにゃへにゃと力を抜いた。
エミリア・モルフィード。
ディアブロ・サーガの世界において、作中で『登場しない』キャラクター。
というより、登場前に死亡する村人の一人。
『勇者』を操作するプレイヤーは、ストーリーの序盤で、とある村に立ち寄ることができる。
そこは物語の進行には特に関係の無い、サブクエストがいくつかあるだけの、魔物に襲われ既に滅んだ村だ。
その惨状の中で拾えるボロボロになった日記や肖像画によって、レイヴンハルト家にメイドとして仕えていた少女、エミリアの存在が仄めかされる。
日記の内容は、主に彼女のヴァルドに対する想いだ。
ヴァルドに向けられる周囲の冷たい視線に対する憤り、そして主人とメイドという身分違いの淡い恋慕。
プレイヤーは、その健気さと儚さに心を打たれ、こう思うのだ。
彼女を救いたかった。
魔物め許してなるものか、と。
だがどれだけ頑張っても、いかなる手段を用いても、それは叶うはずの無い夢。
そもそも、そういうルートが用意されていないのだから。
絶対に救えない、ただプレイヤーの感情を揺さぶり、魔物に対する怒りを起こさせるための、バックストーリーの中に存在する少女。
だからこそ、彼女に俺は心を奪われた。
その思いは今でも変わらない。
いや、今この目で彼女の姿を見たことで、もっと強くなった。
俺は、彼女を愛している。
だから、絶対に死なせたくない。




