第17話 神託の巫女
木の香りが漂う部屋だった。
窓から差し込む光に、薄く埃が舞っている。
俺たちは族長の屋敷へと通され、客間のような場所に案内された。
「ようこそ。神の里へ」
そこで出迎えてくれたのは、彼女だった。
静かな紫の瞳。
清らかな衣に身を包み、凛としたまなざしで俺たちを見つめている。
ティア・カサンドラ。
『神託』という能力を持ち、未来を知ることのできる巫女。
「何の御用でしょうか、旅のお方」
柔らかい声音だった。
張り詰めた空気を揺らすような、落ち着いた声。
エミリアとリンが、自然と背筋を伸ばした気がする。
「新婚旅行だ。通りがかりに、挨拶だけでもと思ってな」
「も、もう! またそれですかっ!」
俺は軽く頭を下げ、努めて礼儀正しく立ち振る舞う。
ティアの瞳が、こちらに静かに向けられた。
「あなた。少し、変わった気配を纏っていますね」
「変わった気配?」
「ええ。破壊と殺戮の外殻を、内なる大きな愛が包み込んでいます。……まるで、全く異なる二つの魂が、一つに溶けあっているような」
ティアの言葉に、俺の心が一瞬だけ凍りついた。
未来視……か?
いや、違う。
今のは見えたのではなく、感じ取ったのだろう。
「そうか? どこにでもいる、ただの旅人だよ」
とぼけたように返す。
ティアは「そうですか」と小さく言って、静かに目を伏せた。
「なんか……本物の聖女って感じするなあ」
リンがぽつりと呟く。
うん、そうだよね。
そうなんだよ。
見た目も中身も言動も、何もかもが聖人なんだよなあ。
落ち着いた空気の中、ティアがふと顔を上げて口を開く。
「探しているのでしょうか。誰かを」
「えっ……」
息が止まり、心臓がドクンと跳ねた。
図星すぎる。
いや、ちょっと待って?
なんでそれ分かるの?
俺、今そんなに顔に出てた?
嘘でしょ?
何なのこの子。
初対面だよね?
不意を突かれすぎて、思わず声が漏れてしまった。
そんな俺の動揺を救ったのは、外から聞こえてくるざわめきだった。
「……?」
ティアが目を細め、顔を少しだけ上げる。
次の瞬間、スッと襖が開けられ、ひとりの女性が足早に入ってくる。
「――《《勇者様》》です。間もなく、こちらに」
その言葉に、ティアの表情が微かに揺れた。
無表情だった眉がぴくりと動く。
それは予兆。
風が変わる前触れのような仕草だった。
ああ……来たか。
ギリギリだった。
何とか間に合った。
勇者と神託の巫女、二人の邂逅の前に会うことができたな。
「お通しください」
ティアの声は静かで、しかし揺るがぬものを宿していた。
数分後。
障子が再び開き、そこから歩いてきたのは、一人の青年だった。
明るい金髪。
均整の取れた顔立ち。
装飾を廃した簡素な旅装を纏い、その腰には一本の剣。
余計な威圧も虚飾も無く、不思議と周囲の空気が引き締まる。
ああ。
これが、勇者か。
ただの少年に見えるけど、わかる。
この人物は、確かに世界を背負う存在なのだと。
幾度となく俺が操作し、幾度となく世界を救ってきた。
間違いなく、彼はディアブロ・サーガの勇者。
でもな。
推しが幸せになれない世界なんて、救ったって意味ないんだよ。
「族長はいるか」
静かな声で、勇者は言った。
「つい先日、亡くなりました。今は私が一族を率いております」
ティアが一礼する。
勇者は「残念だ」と抑揚のない声で言うと、一歩進み、まっすぐに彼女へと告げた。
「ならキミに頼めばいいんだな。『女神の涙』を譲ってほしい」
来たな。
「女神の、涙……」
エミリアが小さく呟く。
そう、これが始まりだ。
女神の涙とは、神の里の一族が管理する宝珠であり、荒れた海を治める効果を持つ。
原作では、人大陸での旅を終えた勇者が、次なる舞台である亜大陸へ進むために使用する、物語の進行上必須のキーアイテム。
「へぇ……あれが本物の勇者かあ……」
「お一人ですね。パーティの皆さまはどこに……?」
「山道の入り口で止められたんじゃない? ほら、見張りの人が言ってたでしょ」
「ああ、そうでした。私たちは『ズル』をしてしまったんですね」
「うん、誰かさんに無理やりね」
リンとエミリアがこちらをじっと見つめている。
うんうん、仲良くなってくれて嬉しいなあ。
会話の内容はさておき、二人がぎくしゃくしなくて本当によかったよ。
そんなやりとりが続く中、ティアが一歩前に出る。
「お譲りしましょう。人類の命運を握る勇者様に、我々神の一族は協力を惜しみません」
「そうか、感謝する」
「ただし、女神の涙は今ここにはありません。この里のさらに上、山の頂上にある『天上の遺跡』に保管しています」
「なに? ……くっ。一刻を争うというのに。すまんが、取りに行かせてもらうぞ」
ああ……ダメだよ勇者くん、文句を言っちゃあ。
何でそんなとこにあんだよ、とか言いません。
何で管理されてる遺跡に魔物が出るんだよ、とかも言いません。
RPGのお約束は黙って受け入れましょう。
「お待ちください。私も、同行させてください」
凛とした声が空気を割った。
場が、一瞬にして静まり返る。
「なに……?」
勇者が眉をひそめ、振り返る。
来た。
ティア加入イベント。
原作でも、彼女はこのタイミングで勇者の旅に加わる。
バックストーリーの中にしか存在しなかったエミリアやリンとは違い、彼女は公式に『勇者パーティ』の一員として、本編に深く関わるキャラクターだ。
もっとも、実際はただの一時加入の助っ人キャラに過ぎないのだが。
「神託の巫女としての、務めがありますので」
静かに、だが確かな意思のこもった言葉。
「……まあ、いいが。速度は落とさないぞ」
「ええ、大丈夫です」
勇者の返答にも微動だにせず、ティアは静かに頷いた。
「務め」。
そうぼかした表現で彼女は語ったが、俺は知っている。
本当は、未来視で見てしまったのだ。
来るべき破滅を。
そして、その中心にあるのは……。
《《勇者の死》》。
だから、彼女は同行を志願した。
世界の希望である勇者の死を、どうにかして食い止めるために。
たとえ、自分の命を代価にしてでも。
「それでは、参りましょう」
ティアが踵を返し、白いローブの裾を揺らして、ゆっくりと歩き出す。
その後ろ姿を見ながら、俺は自然と口を開いていた。
「――俺も、連れて行ってもらおうか」
言葉が落ちた瞬間、全員の視線がこちらへ向く。
ティアが振り返る。
勇者が目を細める。
俺は一歩、前へ出た。
この旅路が、あの悲劇へと向かう道だと知っているからこそ、今、介入しなければならない。




