第六話 マシンの鼓動
# 六
TR-808は、研究室の片隅で静かに息づいていた。
「アナログ回路の集合体なんです」音楽プロデューサーの田中誠一は、TR-808の内部を見せながら説明した。「デジタルじゃない。だから、こんな音が出せた」
神田徹郎は、古い雑誌を開いていた。1981年、YMOがTR-808を初めて取り入れた時の記事だ。
「不完全だったから、完璧だった」田中は続けた。「人工的な音なのに、どこか有機的な揺らぎがある」
青木美咲は、オシロスコープの波形を見つめていた。「単純な波形なのに、これだけ豊かな表情を持つんですね」
「テクノロジーの詩学ですよ」神田は微笑んだ。「完璧な正弦波じゃない。人間の心に響く、機械の鼓動」
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1981年の夏、原宿のレコード店。
「これ、ドラムマシンの音なんだ」店員が熱っぽく語る。「全部、機械が叩いてる」
高校生の神田は、YMOの新しいアルバムのジャケットを手に取っていた。
「でも、生ドラムと違うよね」
「そう、全然違う」店員は目を輝かせた。「でも、それがいい。機械の音だって、自分の声を持ってるんだ」
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「面白いですね」美咲は言った。「今のドラムマシンは、本物のドラムをサンプリングしてますよね」
「そう」田中は頷いた。「より本物に近づこうとしている。でも、808は違った」
「本物の模倣を諦めた」神田が言葉を継ぐ。「代わりに、機械としての新しい表現を見つけた」
田中はスイッチを入れた。研究室に、808特有のバスドラムの音が響く。
「このサブベース」田中が説明する。「アナログ回路だから、微妙に揺れる。その不完全さが、音楽的な生命を生んだ」
「でも、なぜローランドはこんな設計を?」美咲が尋ねた。
「コストの制約です」神田が答えた。「当時のメモリは高価すぎた。だから、アナログ回路で音を作る以外に選択肢がなかった」
「制約が、創造性を生んだ」田中はシーケンサーをプログラミングしながら言った。「技術に限界があったから、新しい表現が生まれた」
808のシーケンスが、研究室に響き始める。
「先生」美咲が神田に向かって言った。「この音、デジタルで完全に再現することは...」
「できない」田中が答えた。「デジタルで『似た』音は作れる。でも、アナログ回路の持つ有機的な揺らぎは、プログラムでは表現できない」
「そこが面白いんです」神田は言った。「技術には、それぞれの時代の、越えられない壁がある。でも時として、その壁との格闘が、思いがけない表現を生む」
808のシーケンスが続く。その音は、40年以上の時を超えて、今なお新鮮な衝撃を放っていた。
「テクノロジーの詩」美咲が呟いた。
「そう」神田は頷いた。「機械だって、自分の声を持っている」
夜の研究室で、TR-808は黙々とビートを刻み続けていた。それは、テクノロジーと人間の、終わりなき対話の音だった。