第五話 迷宮の黄昏
# 五
「ウィザードリーには、哲学があった」神田徹郎は、古いApple II用のディスクケースを手に取りながら言った。
研究室の一角には、様々な時代のコンピュータRPGが並んでいた。Apple II版のウィザードリー、PC-8801版のウルティマ、そしてファミコンのドラゴンクエスト。時代も、プラットフォームも異なる三つのゲームが、ひとつの物語を語りかけてくる。
「ワイヤーフレームの迷宮が、プレイヤーの想像力を刺激した」青木美咲は、画面の中の白線の廊下を見つめながら言った。「でも、なぜこんなにシンプルな表現で?」
「それがね」神田は懐かしそうに微笑んだ。「制約の中の、究極の選択だったんです」
Apple IIの画面が、モノクロの光を放っている。
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1986年、神田がウィザードリーと出会ったのは、友人の家のApple IIでだった。
「これ、アメリカのゲームなんだ」友人の健一が説明する。「RPGの元祖って言われてる」
「英語ばっかりじゃん」神田は画面を覗き込んだ。
「だから、辞書引きながらやるんだよ」健一は得意げに言った。「ほら、これ見てみろよ」
画面には、細い白線で描かれた迷宮が広がっていた。
「なんでワイヤーフレームなの?」
「メモリの制約さ」健一は説明した。「でも、これがかえって良かったんだ。プレイヤーの想像力が、残りを補ってくれる」
神田は、その言葉の意味を、やがて理解することになる。
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「このディスク、まだ読めるんでしょうか」美咲が尋ねた。
「ええ」神田はApple IIの電源を入れた。「このマシンは、よく保守されてるんです」
起動音が鳴り、画面にウィザードリーのタイトルが表示される。
「でも、不思議ですよね」美咲は言った。「なぜ日本で、これほど人気が出たんでしょう」
「それはね」神田は説明を始めた。「日本のRPG文化に、決定的な影響を与えた二つの要素があったからです」
「二つの要素?」
「一つは、堀井雄二さんの存在」神田は『ログイン』の古い号を取り出した。「彼がウィザードリーとウルティマを、日本の文脈に翻訳してくれた」
「そして、もう一つは?」
「コミュニティの力です」神田は別の雑誌を開いた。『テクノポリス』1987年2月号。特集は「RPGの作り方」。「技術と物語が、ここで出会った」
美咲は、PC-8801版のウルティマを手に取った。「この時代の、開発環境って...」
「BASICかアセンブラしかなかった」神田は頷いた。「でも、制約があるからこそ、本質的なものが見えてくる。RPGとは何か、インタラクティブな物語とは何か」
「私たちの研究室でも、ゲームエンジンの研究してますけど」美咲は自分のラップトップを開きながら言った。「現代の開発環境は、比較にならないくらい...」
「確かにね」神田は同意した。「Unreal EngineやUnityは、驚くべき可能性を提供してくれる。でも...」
「でも?」
「時として、シンプルな白線の迷宮の中にこそ、本質的な何かが隠れている」
神田は、ウィザードリーの画面を見つめた。ワイヤーフレームの迷宮が、今も変わらぬ光を放っている。
「面白いですね」美咲は、三つのゲームを見比べた。「ウィザードリーの抽象性、ウルティマのオープンワールド、そしてドラクエの...」
「物語の力」神田が言葉を継いだ。「これらは、単なるゲームの進化じゃない。インタラクティブな物語の可能性を、違う角度から追求した実験だったんです」
研究室の窓から、夕暮れが差し込んでいた。三つの画面が、それぞれの光を放っている。白線の迷宮、タイル状のマップ、そしてドラクエのピクセルアート。
「先生」美咲が言った。「これ、現代のエンジンで再現してみませんか?」
「ほう?」
「でも、グラフィックスはそのままに」美咲は続けた。「この時代の持っていた、想像力の余白を残したまま」
神田は静かに頷いた。迷宮の灯火は、今もなお、新しい冒険者たちを待っているのかもしれない。