第四話 シャープの約束
# 四
「これが、約束された未来だと思ったんです」
村井智子は、研究室に持ち込まれたX68000の画面を見つめながら言った。画面には、彼女が1991年に制作したCG作品が映し出されている。
「高精細、多色数。しかも、プログラマブル」青木美咲は資料に目を通しながら言った。「この時代にこれだけのスペックを持つマシンが存在したなんて」
「存在しただけじゃない」神田徹郎は、キーボードに手を伸ばした。「僕らの世代に、確かな約束を示してくれた」
カタカタというキーボードの音。画面には、C言語のソースコードが流れていく。
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1991年秋。神田は大学の計算機研究会の部室で、新しく導入されたX68000の前に座っていた。
「また徹夜?」村井が部室を覗き込んだ。彼女は美大生で、大学のグラフィックス研究会に所属していた。
「ちょっと、面白いものを」神田は画面から目を離さずに答えた。
「へえ」村井は神田の隣に座った。「また難しそうなプログラム?」
「グラフィックスの制御プログラム。村井さんの作品を、動かしてみたくて」
「えっ」
「だって、もったいないじゃないですか」神田は初めて画面から目を離した。「村井さんの作品、静止画のままで」
画面には、フラクタル図形が静かに広がっていく。神田の作ったプログラムが、村井の作品に命を吹き込もうとしていた。
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「このプログラム、まだ残ってるんですね」美咲は感心したように画面を見つめた。
「X68000の魅力は、ハードウェアの性能だけじゃなかった」神田は懐かしそうに言った。「アートとプログラミングの境界を、自由に行き来できる環境だった」
村井は、古いフロッピーディスクを手に取った。「当時の作品、ほとんどが失われたと思ってました」
「データの考古学も、僕らの仕事ですから」神田は微笑んだ。
画面の中で、フラクタル図形が新しい形を作っていく。30年以上の時を超えて、かつての約束は、まだ生きていた。
「面白いですね」美咲が言った。「現代のGPUとは、まったく異なるアプローチ」
「MC68000には、ある種の哲学があった」神田は説明を始めた。「整然としたアーキテクチャ。プログラマーフレンドリーな設計思想。そして何より...」
「何より?」
「人間の創造性を信じていた」村井が答えた。「これは単なる仕様じゃない。一つの思想だった」
神田はプログラムの一部を修正し始めた。「現代の環境は、確かに強力だ。でも、時として見失いがちな何かを、この時代の機械は教えてくれる」
「見失いがちな何か?」
「プログラマーとアーティストの関係性、かな」神田は考え込むように言った。「X68000は、その両者の対話を可能にした。技術と芸術の、新しい関係の可能性を示してくれた」
村井は、自分の古い作品を見つめ直した。「そうね。私たちは、お互いの言葉を学ぼうとしていた」
美咲は、自分のラップトップを開いた。「現代のグラフィックスライブラリで、このプログラムを再現できないでしょうか」
「面白い提案ですね」神田は目を輝かせた。「過去と現在の、また新しい対話が始まるかもしれない」
研究室の窓から、夕暮れの光が差し込んでいた。X68000の画面の中で、30年前のプログラムと作品が、静かに呼吸していた。
「約束は、まだ終わっていないのかもしれない」村井は、ふと呟いた。
神田と美咲は、黙ってうなずいた。技術の歴史は、単なる進歩の物語ではない。それは、人間の創造性との、終わりなき対話の記録なのかもしれない。
画面の中で、フラクタルの模様が新しい形を描き続けていた。