第二話 PC-8801との対話
# 二
「キーを叩く音が違うんです」古山教授は、PC-8801の前で目を細めた。「このキーボードは、会話をする相手でした」
工学部新館の古山研究室は、神田の研究室の隣にある。古び始めた部屋の中で、PC-8801が今もなお稼働している。古山教授はその前で、まるで古い友人と再会したかのように、懐かしそうに画面を見つめていた。
青木美咲は、その姿を不思議そうに見ていた。神田教授に連れられてやってきた彼女には、この光景は少し理解しがたいものだった。
「キーの音が違う?」美咲は、自分のMacBookのキーボードを無意識に触りながら尋ねた。
「ええ」古山教授は頷く。「カシャン、カシャン...一文字一文字が、確かな手応えを返してくる。BASICのプログラムを打ち込むとき、私たちはその音を聞きながら考えていました」
「私が学生だった頃、古山先生にBASICを教わったのを思い出しますね」神田は研究室の本棚を見回しながら言った。「確か、ハノイの塔のプログラムでしたっけ」
古山は静かに微笑んだ。「神田君は、すぐにCが書きたいと言い出しましてね」
古山がキーボードに触れると、PC-8801が低い音を立てて起動した。ディスプレイには、青い画面が浮かび上がる。
```basic
10 PRINT "HELLO WORLD"
20 GOTO 10
```
「シンプルでしょう?」古山は美咲に向かって言った。「でも、この制約の中で、私たちは全てを考えなければなりませんでした」
神田は、部屋の片隅に置かれた段ボール箱から、古いディスクケースを取り出した。「これ、先生の研究データですよね?」
「ああ、圧縮アルゴリズムの実装データだ」古山は懐かしそうに頷いた。「64KBのメモリの中で、いかにデータを効率的に扱うか。今では想像もできないような制約との戦いでしたよ」
美咲は、その5インチフロッピーディスクを手に取った。彼女の使うSSDの何万分の一の容量しかないそれは、しかし確かにここにある。そして、今も動作している。
「この研究、まだ続けているんですか?」神田が尋ねた。
「ええ」古山は画面に向かいながら答えた。「現代の圧縮アルゴリズムの原型の一つは、実はこの時代に生まれたんですよ。制約が、アイデアを磨いてくれた」
キーボードを叩く音が響く。カシャン、カシャン。その音は、確かに現代のキーボードとは違っていた。
「先生」美咲が突然口を開いた。「このプログラム、少し改変させていただけませんか?」
「ほう?」古山は興味深そうに振り返った。
美咲はキーボードの前に座った。最初は戸惑いがちだった指使いが、徐々に古山の言う「会話」のリズムを見つけ始める。
「これは...」神田が画面を覗き込んだ。
「関数型プログラミングの考え方を、BASICで実装してみたんです」美咲は少し誇らしげに説明した。「制約は確かにきついですけど、その分、アルゴリズムの本質が見えてきます」
「なるほど」古山は感心したように頷いた。「君の世代から見た8bitマシンの解釈というわけですね」
「実は」神田が言った。「僕も学生時代に似たようなことを考えていました」
「ああ、覚えていますとも」古山は楽しそうに笑った。「神田君は、いつも既存の枠を超えようとしていた」
春の午後の日差しが、青い画面に反射する。カシャン、カシャン。キーボードの音が、時代を超えた対話を紡いでいく。
「そうだ」古山が思い出したように言った。「昔のゲーム、まだ動くはずですが、やってみますか?」
「ゲームも?」美咲の目が輝いた。
「アーケードゲームの移植版です」古山は別のディスクを取り出しながら説明した。「当時は、アーケードの技術とパソコンの技術が、互いに影響し合っていたんですよ」
「セガとかアーケードの話」神田が美咲に向かって言った。「今度、面白い話が聞けると思いますよ。アフターバーナーの時代の」
三人の頭上で、古い換気扇が回っている。PC-8801の起動音が、また研究室に響いた。青い画面が、新しい対話の始まりを告げていた。