第一話 UNIXの作法
# 一
「このbashスクリプト、デバッグできますか?」神田徹郎教授は、年季の入ったThinkPadの画面を不意に左隣の青木美咲に向けた。画面には白黒の文字が並んでいる。X Windowすら立ち上げていないコンソール画面だった。
「えっと...」美咲は思わず目を細める。慣れない端末環境に、一瞬の戸惑いが頭をよぎった。「あの、VSCodeで見せていただけると...」
「ははは」神田は声を立てて笑う。「まさにそれなんだよ。君たちの世代とぼくらの世代の、最も本質的な違いの一つかもしれない」
アプリケーション研究室は、工学部の古い棟の最上階にあった。スペースの半分は神田教授の集めた様々な時代のコンピュータが占めている。80年代のワークステーションから、ごく最近のラズベリーパイまで、まるで技術の博物館のような景観が広がっていた。
「わたし、ちゃんとシェルは使えますよ」美咲は少し拗ねたように言う。「ls, cd, catとか...」
「ああ、もちろんそういう意味じゃない」神田は目を細めた。春の陽が研究室の窓から差し込み、埃っぽい空気が輝いて見える。「君は今、何を使ってプログラミングしている?」
「Node.jsとTypeScript...あとはReactとか」
「現代的なスタックだね」神田は頷く。「効率的だし、生産性も高い。でも、その下で何が動いているのか、想像できるかな?」
美咲は考え込むように天井を見上げた。「Node.jsのランタイムとか...」
「もっと下」
「...OSのシステムコール?」
「そう、そこなんだ」神田は懐かしそうな表情を浮かべる。「1970年代、UNIXが生まれた頃、プログラマたちは必然的にそのレベルまで理解していた。なぜって、それ以外の選択肢がなかったからね」
神田は立ち上がり、棚から古い本を取り出した。'The UNIX Programming Environment'。表紙は褪せていたが、大切に扱われてきた形跡が見える。
「今日は電気街に行ってみないか」唐突に神田が言う。「面白いものを見せてあげられると思う」
電気街は、大学から歩いて15分ほどの場所にあった。かつての賑わいは失われつつあるが、それでも古い電気屋や部品屋が点在している。神田は迷うことなく、雑居ビルの中の一軒の店に向かった。
「ああ、神田先生」店主の佐々木は、カウンターから顔を上げた。60代半ばといったところか。店内には基板や電子部品が所狭しと並んでいる。昔ながらの電気街の風景だ。
「佐々木さん、例の品は?」
「ああ、取り置きしてありますよ」佐々木は奥から段ボール箱を持ってきた。「ヤフオクでも見つからないでしょう、これ」
箱の中には、茶色く変色した基板が収まっていた。
「これが、UNIX文化の始まりの一つ」神田は基板を大切そうに手に取る。「LSI-11の基板だよ。今のパソコンの何百分の一もの性能はないけど、これで僕たちは、UNIXの世界を学んだ」
美咲は基板をのぞき込んだ。無数のICチップと配線。それは確かに「コンピュータ」の姿をしているが、今の彼女の知っているそれとは、あまりに違っていた。
「でも先生、これじゃあ何もできないのでは...」
「できないことの方が多いね」神田は微笑む。「だからこそ、本質的なことが見えてくる。制約は、時として最高の教師になる」
佐々木が奥から古びたマニュアルを持ってきた。ページを開くと、手書きのメモが余白に残されている。
「これ、先生の字ですか?」
「ああ」神田は照れたように頷いた。「1986年かな。USENIXのマニュアルを、夜な夜な必死で読んでいた。コミュニティの誰かが、高値で買ったマニュアルを輪読していたんだ」
「コミュニティ?」
「そう。渋谷や秋葉原には、似たような"マニア"が集まる喫茶店があってね。今で言うテックカフェのようなものかな」神田は懐かしそうに言う。「土曜の夜になると、みんなそこに集まって、新しく手に入れた技術資料を回し読みしたり、コードの話で盛り上がったり」
昼下がりの電気街で、神田の言葉が時を超えて響く。美咲は、その時代を想像しようとした。ネットもなく、情報は限られ、それでも人々は集まり、学び、教え合った。
「先生」美咲が言う。「さっきのスクリプト、もう一度見せてもらえますか?」
「ああ」神田は微笑んだ。「でも今度は、研究室のワークステーションで見せよう。GUIは使わないけどね」
「はい」美咲は頷いた。「今度は、ちゃんとviで読んでみます」
佐々木が、古いコーヒーメーカーでコーヒーを入れ始めた。その音と香りが、午後の電気街に漂う。
神田は基板を丁寧に箱に戻しながら言った。「UNIXの本質は、実はソースコードの中にはない」
「えっ?」
「人々が集まり、学び、教え合う。その作法の中にこそ、UNIXの本質があるんだ」
三人の頭上で、扇風機がゆっくりと回っていた。時折、春の風が、古い部品と新しい埃の匂いを運んでくる。それは、技術の地層が堆積した、どこか懐かしい匂いだった。