235 昔の記憶 03
お読みいただきありがとうございます。
高架橋を行き交う車のライトが私たちを照らす。
「どうして、私だと……」
わかったのだろう?
私は住まいが特定されるような情報も、私自身が特定されそうな情報もSNSに載せないように気をつけていたのに。
「ふじさんがよく行くカフェ、俺の父親の会社の近くなんですよ」
飽き人くんの言葉に私は意味がわからずにますます眉間に皺が寄った。
「ふじさんってどんな人なんだろうな〜って思っていた時、偶然、あなたがスマホをいじっているところを後ろから見ちゃったんです。そしたら、ふじさんのアカウントで運命を感じちゃいました」
一体、彼は何を言っているのだろうか?
運命?
いや、そこには言及してはいけない気がする。
「運命の人にすぐに声をかける勇気はなかったから、まずはふじさんのことをもっとよく知ろうと思って色々調べました」
私が言及しなくても、運命の話は続いていた。
私の聞き違えではなかったようだ。
それに、また気になる単語があった。
調べたというのはどういうことだろう?
「SNSで話してて、いいなって思っていた人を偶然カフェで見つけるなんて、運命だと思いませんか? でも、ふじさんは奥手みたいだから、顔を合わせる前に調べたんです」
飽き人くんはニコニコと張り付いたような笑顔を崩さない。
「運命の人に逃げられたくないですから」
さらに飽き人くんが一歩近づいてきて、私はやっぱり後ろに逃げる。
「ふじさん、本名は嘉村光希さん、年齢は52歳、未婚、中小企業の課長。父親は早くに亡くなり、母親は虐待するような碌でもないような人で、祖父母に育てられた。そして、お兄さんが、この橋で自殺した」
飽き人くんの口からスラスラと語られる自分の経歴に寒気がし、気持ち悪くなる。
この青年は一体なんなのだろう?
「昇進試験を受けることを勧められても断っているのは自分に自信がないからですよね? 部下や他の社員からも人気があるのに自己肯定感がとても低いのは、幼い頃の経験が原因ですか?」
飽き人くんはズカズカと遠慮もなしに人の心に土足で立ち入ってくる。
「それとも、ふじさんの二十歳の誕生日にお兄さんが自殺したから?」
端正な顔に反して、私には彼の顔が徐々に真っ黒な化け物みたいに見えてきた。
「でも、俺は、そんなふじさんが大好きです。あのゲームのカルロのことをあんなに気にしていたのも、お兄さんのことがあったからですよね?」
心の中が、真っ黒な泥で汚れていく。
「お兄さんを守れなかったから、代わりにカルロを守ろうと思ったんですか? ゲームの中の話なのに」
カラカラと彼は笑う。
「そんな純粋なふじさんが俺はすごく好きなんですよ」
「ねぇ」と、彼は囁くような、誘惑するような声で言った。
まさに、悪魔の囁きってこういう声なんじゃないかっていう、そんな声。
「ふじさん、俺と付き合ってください。俺の父親、それなりに大きな会社やってて、俺はそこの跡継ぎなので、損はないですよ?」
私は首を横に振った。
「無理だよ。君が何を言っているのか全く理解できない……」
「さっきも言ったでしょう? 俺たち運命なんですから、ふじさんも絶対に俺のこと好きになりますよ」
彼はニタリと笑って、手を伸ばしてきた。
私は反射的にその手を払う。
「痛いじゃないですか……」
彼は大袈裟に痛そうに自分の手をさすった。
「俺はただ運命の人と幸せになりたいだけなのに、ふじさんが俺と付き合ってくれないなら、死んじゃおうかな……」
そう言って、彼は高架橋の欄干に座った。
彼が私の心の傷に付け入るつもりなのだとわかったけれど、欄干の上でゆらゆらと体を揺らす彼に私は冷静さを失っていった。
兄はこの欄干を乗り越えて、下の川に落ちたのだ。
極度の緊張に私の体は震え、呼吸は乱れ、動悸が激しくなり、目の前がかすんできた。
ゆらゆら揺れる青年の姿とお兄ちゃんの姿が重なっていく。
お兄ちゃんの姿をした影の唇は動いて何かを言っているようだったけれど、もうその声は聞こえなかった。
お兄ちゃんの姿をした影が大きく揺らぎ、欄干の外側にその体が倒れていく。
ぼくはお兄ちゃんを助けたくて、手を伸ばした……
体が浮遊する感覚に続き、落下する感覚がする。
ー 光希!
体が落ちていく途中、お兄ちゃんの声がした気がした。