234 昔の記憶 02
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兄は私を置いて早くに逝ってしまったけれど、幸い祖父は長生きで、高血圧などはあったが大きな病気はなかった。
「お前が幸せになるまでは死ねないな」
よくそう笑っていた。
「じいちゃん、私は結婚はしないよ?」
「結婚だけが幸せじゃないだろう?」
「そうだね……」
「恋をしたり、結婚したりするだけが幸せじゃない。ただ、物語の中の人でもいいし、動物でも植物でもいいから、何かを愛してほしい」
兄が死んでから私は人を信じることができなくなっていた。
祖父はそのことを知っていたのだと思う。
兄の生い立ちを聞いてから、そういえば小さい頃、兄は知らない男の人と出かけることがあった気がするなんて思い出したりもしたけれど、それが本当に幼い頃の記憶なのか、それとも、兄の話を聞いてから創作してしまった記憶なのかは判断ができない。
「そういえば、今日、倉庫を掃除していたら光希が子供の頃に好きだった本が出てきたぞ。もう要らないようなら古紙に出してしまうが」
祖父に渡されたのは中学生の頃に学校で流行っていたヒーロー漫画だった。
自分が同性愛者だと知るきっかけになった漫画でもある。
主人公が格好良くてドキドキしたのを思い出した。
三次元の人間を好きになるのは難しいけれど、二次元の登場人物なら好きになれそうな気がした。
そうして、私は社会人になってから読むのをやめていた漫画を読むようになった。
インターネットが普及してから無料で読める漫画も増えたし、アマチュアの漫画家さんやイラストレーターさんの作品に触れることもできた。
そして、私は純粋無垢なキャラクターたちを安心して好きになることができた。
二次元のいいところは、キャラクターの考えがほとんど誤解なしに知ることができるところだった。
優しい顔してこちらを騙してくることはなく、思考と行動に矛盾があることもそれほどない。
そんなキャラクターたちのことなら、安心して好きになることができた。
時代は変化して、同性愛者を受け入れる若者たちが増えてきたようで、漫画の世界にも同性愛者を描いた作品が増えてきた。
私が通っていた本屋にもBL漫画を置くスペースができ、初めて気づいた時にはかなり驚いた。
しかし、行きつけの本屋でBL本を買うことは戸惑われて、私はネット通販で初めてBL本を手にした。
そして、BL本の登場人物たちの幸せを自分のことのように喜んだ。
彼らの幸せを見ることで、私は同性が恋愛対象である自分自身の罪悪感や後ろめたさを慰めていたのだと思う。
私の気持ちが徐々に慰められていることを察してか、100歳を目前に祖父は亡くなった。
私が40代半ばの頃だった。
最期まで私の幸せを願い、側で見守ってくれていた祖父には感謝しかない。
その頃にはSNSが普及して、顔も知らない人たちとBL漫画やアニメの感想を語り合うようになっていた。
近所の人や職場の人たちよりも実際に会うこともない人たちとの会話の方が気が楽だった。
同じBL作品について語り合っていた人たちからは何度かオフ会の誘いがあったけれど、私は毎回断っていた。
SNS上の知り合いのため、みんなしつこく誘ってくることはなくて助かったけれど、ただ一人、飽き人くんだけは繰り返し声をかけてきた。
みんなと会うのが嫌なら自分だけと会おうなどと誘ってくれたが、私は頑なに断り続けた。
SNSの人たちと話をするのは気が楽だったが、実際に顔を合わせてもいない人たちを信用できるわけもなかった。
実際に職場で顔を合わせる人たちのことさえも心から信用して本音を言うことなんてことできないのに、尚更だ。
それにも関わらず、彼は私を見つけ出した。
「ふじさん、ですよね?」
兄の命日に高架橋に花束を置きにいった私に話しかけてきた青年がいた。
まるでテレビで見るアイドルのような顔立ちの青年だった。
「……君は?」
どれだけ記憶を探しても、こんな青年には会ったことがない。
そもそも、私のハンドルネームを知っているリアルな知り合いなどいない。
そして、私がこのハンドルネームでやり取りをしているSNSの知り合いとは会ったことがない。
一体誰だろうと、私は警戒から自然と眉間に皺が寄っていたと思う。
「やだな、そんな顔をしないでくださいよ」
整った顔の彼はにこりと微笑んだ。
作り笑いが上手な子だと思った。
「俺は飽き人ですよ」
「あきと……くん?」
「はい。やっと会えましたね。ふじさん」
飽き人くんが私に一歩近づき、私は一歩後ろに下がった。