悪役令嬢とキャットファイトをしたヒロイン
アビゲイル・ジョルナイは激怒した。必ず、かの邪知暴虐の悪役令嬢エリザベス・ヘレンドを除かねばならぬと決意した。
アビゲイルは転生者である。この世界が乙女ゲームの世界で、自分がヒロインだと知っている。
テンプレ展開など知ったことではない。中だるみのごとく陰湿ないじめに耐えるなど面倒だし、そんなことでデイヴィッド・ホロハーザの心を引いたとて彼に守られるだけの存在に成り下がるのみだ。前世で自立した女性であったアビゲイルにとって、到底耐えられる仕打ちではなかった。
だからアビゲイルは、エリザベスにワインをかけられたときに白手袋を取り、エリザベスの嘲笑を待つことなく彼女に投げつけたのだった。
そもそもエリザベスはデイヴィッドの婚約者ではない。ホロハーザ家とヘレンド家の近さから、あくまで最有力候補と目されているのみだ。エリザベスの苛烈なけん制に怯えて他の候補が近寄らなかっただけで、別にデイヴィッドが誰を選ぼうとエリザベスにそれを咎める権利はなかった。
それなのに、エリザベスはデイヴィッドと夜会で話していたアビゲイルにいきなりワインをかけた。立派な侮辱である。そして、アビゲイルにはそんな侮辱を許してやる理由など存在しなかった。
「エリザベス・ヘレンド、あなたに決闘を申し込みます」
アビゲイルの声はよく通り、ダンスホールは静まり返った。
「決闘ですって?」
エリザベスは理解ができないというように眉を上げた。
「ええ。負けたら二度とデイヴィッド様に近寄らないと誓うのです」
アビゲイルの出した条件にどよめきが起きる。
「なんて野蛮な!そもそも、わたくしは武術の心得などございませんから、お受けする道理もございませんわ」
「エリザベス様がわたくしにワインをおかけになった道理もございませんわね。それに、武術の心得がないのはわたくしも同じこと。ですから…」
エリザベスの反論を封じ、アビゲイルはおよそ令嬢にふさわしくない、ギラギラした笑顔で言った。
「…徒手でまいりましょう」
ダンスホールは異様な熱気に包まれている。ダンスをするものはもはやおらず、楽団も演奏を止めてしまった。
会場中の視線を集めてもなお、エリザベスは逃げ道を探っているようだった。
「野蛮ですわ、野蛮ですわ!そのような理不尽な提案を受ける愚か者がどこにいるものですか!ねえデイヴィッド様、こんな野蛮な者はデイヴィッド様のお傍にふさわしくありませんわ」
そう言ってデイヴィッドにすがろうとするエリザベスに、アビゲイルはあえて大きな声で呼びかけた。
「エリザベス様!お逃げになるのですか、負け犬のように、しっぽを巻いて!」
エリザベスはキッとして振り返り、それでもなんとか冷静に反論を試みようとしているようだった。
あと一押し足りない。アビゲイルはエリザベスにだけ聞こえるように、小声でからかった。
「わんわ~ん♡おうちでおねんねしましょうね♡」
「うがーっ!」
エリザベスはアビゲイルに飛びかかってきた。
アビゲイルはどこまでも冷静なつもりだったので、エリザベスが先に一撃入れてくるまではなにもしないでおこうと考えていた。
なんといってもお互い令嬢の身分、今後の評判を考えればできることにも限度がある。
傷が目立ちにくい腹部に2、3発入れればそれで済むだろうと思っていた。
計算外だったのは、煽りすぎたあまりエリザベスが完全に頭に血が上っていたことだった。
なんとエリザベスは飛びかかってきた勢いそのままに、アビゲイルの顔にかみつこうとしたのである。
アビゲイル・ジョルナイは激怒した。ワインをかけられた時よりも激怒した。
必ず、必ず、このファッキン悪役令嬢エリザベス・ヘレンドをボコボコにしなければ許せぬと決意した。
「顔はやめろ!」
アビゲイルは叫び、エリザベスの脇腹に拳を一発入れた。
「うぅーっ!」
エリザベスは唸り声をあげ、アビゲイルの頬を張った。
「やってくれやがりましたわね!」
アビゲイルはお返しとばかりにエリザベスの脛をしこたま蹴りつけた。エリザベスはあっさり膝から崩れたが、アビゲイルの肩をつかんで引き落とし、二人は揃ってダンスホールの床に倒れこんだ。
倒れたことで足が自由になり、アビゲイルとエリザベスはお互いをめちゃくちゃに蹴る。折を見て立ち上がりたいアビゲイルだが、エリザベスは両手でアビゲイルをつかみ、放そうとしない。
エリザベスと違い両手が空いているアビゲイルはエリザベスの腹部を殴りつけるが、エリザベスもかみつきや頭突きでアビゲイルの顔や首筋を攻撃してくる。
二人のドレスは無残に引き裂かれ、コルセットは砕け、ネックレスはちぎれ飛び、髪飾りは床に落ち、靴は蹴りの勢いでどこかに飛んで行った。
エリザベスの頭突きがあたり、アビゲイルの鼻から血が噴き出す。
鼻血で息がしにくくなったので、アビゲイルはそろそろ終わりにしたかった。
エリザベスの脇腹を押さえ込み、鳩尾に全力で膝をたたきこむ。
「ぐぅっ!」
エリザベスが令嬢にあるまじきうめき声をあげる。かまわず5発ほど膝をいれると、エリザベスは失神した。
闘いは終わり、アビゲイルはよろよろと立ち上がった。鼻血が床とエリザベスに滴る。
ダンスホールは爆発的な歓声に包まれ、アビゲイルは右手を挙げて応えた。
二人を取り囲んでいた人垣が分かれ、国王が拍手をしながら進み出てきた。
「面白い見世物だった。連れていけ」
アビゲイルは兵に囲まれてダンスホールを出ていき、そのまま牢に送られた。
「君ってものすごいバカだったんだね」
デイヴィッドの言うことは至極もっともで、アビゲイルはうなだれるしかなかった。
「返す言葉もございませんわ…」
結論から言うと、アビゲイルはお咎めなしとなった。
エリザベスに決闘を申し込んだ経緯は相手に非があったことが認められ、また先にエリザベスが攻撃してきたことも情状酌量の余地があるとされた。
ただし、最後に鳩尾を6回も膝蹴りしたことは反撃が過剰だったとされて、エリザベスの非と相殺となった。
このためエリザベスにもお咎めはなく、アビゲイルが提唱したデイヴィッドへの接近禁止命令のみが言い渡された。
「きちんと証拠を固めていけば、アビーが傷つくことなくヘレンド嬢を断罪することだってできたのに。僕の証言がなかったらけっこう危なかったよ」
「その節は本当にありがとうございました。デーブのおかげですわ」
決闘そのものはアビゲイルに理があるとされたものの、エリザベスへの仕打ちにヘレンド家は納得せず、賠償金とアビゲイルの謝罪を求めてジョルナイ家を訴えたのだ。ヘレンド家のほうが地位が上であり、そのままならジョルナイ家が賠償を飲まされるところだが、デイヴィッドがアビゲイル擁護に動き、もう一つの当事者であるホロハーザ家がジョルナイ家について請求は棄却された。
引き換えにデイヴィッド・ホロハーザとアビゲイル・ジョルナイの結婚が決定し、アビゲイルは乙女ゲームの数倍速くデイヴィッドとの関係を成就させることができたのであった。
「でも、君が守られるだけの存在じゃないってことは良くわかった。お互いに支えあっていこうね」
「そうですわね。お互いが信頼できる結婚生活を送りましょうね」
アビゲイルは誓うように拳をつくって見せた。
「…ああ」
デイヴィッドの笑顔が少しひきつっているように見えるのは、きっと気のせいだろう。
アビゲイルは今、とても幸せだ。