第一夜
壁一面に置かれた巨大な本棚。
本棚に入りきらないのであろう、その周囲には更に多くの本が積まれている。
部屋の中心の椅子に座る黒衣の男が、何者かに向かって話している。
「お越し頂きありがとうございます。此処は夢幻の書架、訪れた方が望むものをご用意致します」
「葵を助けたい、そのためならなんだってする」
「成程。少々お待ちください」
男は傍らにあった1冊の本を開くと、女に向かって問い掛けた。
「お客様のお名前は紫様、妹様のお名前は葵様で間違いございませんか?」
「なぜ」
紫と呼ばれた女は、男が自分と妹の名前を知っていることに驚き、訝しんだ様子で答えた。
「夢幻の書架には、あらゆる事柄が記された本が収められているのでございます。紫様が此処にいらっしゃった理由も含めて」
「はあ」
何を言っているのかわからないという紫を一瞥して、男は更に続ける。
「日本国の魔道の大家に生まれる。つい最近勃発した他家との抗争によって妹様を除くご家族を失われた。唯一無事だった妹様は術式を継ぐものとして攫われ監禁されている。先祖伝来の書に記された異世界への扉を開く儀式を執り行って此処に辿り着いた」
初対面の人物が知る筈のない情報を淀みなく話し続ける。
「繰り返しになりますが、此処はそういう場所なのでございます。さて、ご理解頂けた所で改めて紫様の望みをお聞かせください」
出自から何から全て言い当てられた紫はたじろぎながらも、意を決して声を上げる。
「葵を助けたい、そのためだったら命だって惜しくはない」
一般的な家とは異なる環境の中では様々なことがあった。紫の家はその道では知らぬものは居ない程の名家だったが、それ故に生じる軋轢もあった。そんな境遇の中、家族は唯一の支えと言っても良かった。葵は紫にとても懐いていたし、紫もまた葵のことを何よりも大切にしていた。
しかし、紫を支えてくれた家族はもう居ない。自分の力が足りないばかりに両親は殺され、葵は攫われてしまったのだ。最早何も失うものなどない。
紫の持つ覚悟を察したのか、男は神妙な面持ちになり開いていた本を閉じて向き直った。
「それでは紫様がお求めになっているものは“妹である葵様を助けることが出来るだけの力”で間違いございませんか?」
「それで間違いない、もし対価が必要なのであれば好きなものを持っていくがいい。ただし、葵を傷付けることは許さない」
葵が待っているのだ、無駄な問答をしている時間などない。
寿命でも何でも持っていくがいい、どうせ葵を助けることが出来ないならばこの人生に
意味などないのだ。
僅かな間の後、男は1冊の本を手に取り紫に差し出す。
「それではこちらの本をお持ちください。これには紫様の世界に関する情報が記されてります。必ずや紫様のお力になるでしょう」
紫が本を受け取ると同時に男は続ける。
「さて、話が長くなってしまいました。紫様がお求めのものを私がお渡しする、この契約がなされたことでこの場への扉も閉ざされることとなります。もうお会いすることは叶いませんが、紫様と葵様のご無事を祈っております。呉呉もお気を付けください」
そういって男が手を向けた先には、此処に来た時にはなかった筈の扉があった。
紫は一刻も早く葵の元へ向かうため駆け足で扉へと向かっていく。
「ああ、最後に一つ。此処は異なる世界同士を繋ぐ場所、夢と現実の狭間とも言える場所でございます。時の流れが紫様の世界とは異なっております故、元の世界の時間は紫様がお越しになった時点で止まっております。ですので、此処で過ごした時間に関してはお気になさらないでください」
背中から聞こえる声に対して、それならば先に言ってほしい内心で毒つくが、それを言葉にする前に答えが返ってきた。
「それを先に伝えると本来の目的を捨てて居着こうとする者もおりますので。全てが得られる代わりに制約も多い、此処はそういう場所なのです。どうかお許しください」
目が覚めた。
どうやら儀式の準備が終わると同時に気を失ってしまっていたらしい。
周囲を見渡してもあの男から渡された筈の本が見つからない。所詮は出鱈目な儀式、都合の良い夢を見てしまったんだろう。妹1人助けることが出来ず、こんなものに縋るなんて姉失格だ。いっそのこと、今此処で死んでしまおうか。
そんなことを考えた瞬間、知っている筈のない情報が脳内を巡り、かつてない力が私の体を満たしてゆく。
全身に流れ込む膨大な知識に振り回され、呼吸すらもままならない。息も絶え絶えな状態になりながらも、自分が笑っていることに気が付く。あれは夢ではなかったのだ。あの男に渡された本の中身が私の中を満たしているに違いない、そう確信した。
その状態でどれだけの時間が過ぎたのだろうか、しばらく経って私の体はようやく通常の状態へと戻りつつある。この力があれば妹を助けることが出来る、すぐに出発しなければ。
今助けに行くからね。
そう1人で呟いて私は歩き出した。
一体どれだけの人を殺めてきたのだろう。
妹が閉じ込められている部屋の扉を開けようとした瞬間に、ふと思った。
あの夢を見た後、私はすぐに行動を始めた。男の言っていた通り、私には妹を助けるための力が与えられていた。
本来であれば知っている筈のない知識、持てる筈のない力を利用してありとあらゆる障害を排除してきた。
父と母を手に掛け妹を攫った実行犯を殺した。
それを指示した者も殺した。
それにより敵対した他家の者すら殺した。
父母も家も失った私にとっては最早妹しかなかったから。
この地獄のような日々もようやく終わる。
この扉の先には妹がいるのだ。
重い扉を開けると、そこには1人の少女が居た。
いきなり現れた私に対して彼女は怯えたような表情を見せていたが、私が紫であることがわかると安堵の表情を見せて駆け寄ってくる。
「紫姉様、葵です。助けに来てくださったんですね」
私を見て安心したのか、彼女は涙を流しながらも私に抱きついてきた。
「毎日が怖くて不安で仕方ありませんでした。でも姉様が来てくれて良かったです」
そういって上目遣いで私を見つめている。
私は彼女の頭に手を伸ばす。
頭を撫でてもらえると思ったのだろう、えへへと笑いながら目を瞑っている。
そして。
その細い首を折った。
少女の首はあらぬ方向に曲がっている。
起きていることが理解出来ないという表情でこちらを見つめている。
「なん・・・ねえさ」
言葉にならない声と共に彼女の体は人形のように崩れ落ちた。
床に倒れる小さな体を見て思う。
此処じゃないならば妹はどこにいるんだろう。
他に妹を隠せる場所があるんだろうか。
妹の髪はどれくらいの長さだっただろう。
妹の名前はなんだっただろう。
妹はどんな顔だっただろう。
妹を助けに行かなければ。そのためならば私はどんな犠牲も厭わない。
壁一面に置かれた巨大な本棚。
本棚に入りきらないのであろう、その周囲には更に多くの本が積まれている。
部屋の中心の椅子に座る黒衣の男が、何者かに向かって話している。
「お越し頂きありがとうございます。此処は夢幻の書架、訪れた方が望むものをご用意致します」
「それが目的で此処まで来たんだ。しかし、先に聞きたいことがある」
「なんなりと」
「望むものを用意すると言うが、こちらから何か差し出すものはないのか」
「仰るとおり、代価はお支払い頂きます」
「何を支払うことになるんだ」
「“記憶”でございます。此処ではお客様が望むものをご用意するのと引き換えに、その方が最も大切にしている記憶を頂くことになります」
「どうぞごゆっくりお考えください。後悔先に立たず、と申します。如何に切羽詰まっていたとしても内容を確認せずに話を進めることは目隠しをして往来を渡るようなもの。お客様のご判断は賢明と言えるでしょう」