漆ツ:司ハ斯ク語リキ
今回司ちゃんからです。
ふぅ、行ってしまいましたか。慌ただしい人でしたね。
ボクーー『司』と認識しているーーは、天塩さんが扉を閉めてお帰りになったあと、いつものように彼女の触れた場所を念入りにアルコールで消毒していく。そろそろ次のボトルを買ってこないと、と残りの容量を気にしつつ、先程の彼女の『答え』について咀嚼していく。
(『今見えてるのは全部誰かの願い』、ですか)
ボクも棗も、全て誰かの作り出した偶像。彼女はそう一つの仮定を出した。
ーーくだらない。本当に彼女には期待外れもいいところです。
ーーまさか、こんなに早く『私達』の片隅に触れるなんてね。
「くく、くくく…………貴女は本当に面白い」
天塩 木染さん。貴女は本当に、観察のし甲斐がありますね。そして、踊らせ甲斐もある。
(これからももっと踊ってください、ぼく『達』の為にね)
今は部活動に励んでいるであろう天塩さんを思い起こして、そっと蜘蛛の糸を伸ばすと、
「……っ!? 」
指に伝わる鋭い痛み。思わず布巾を投げ捨てて手袋を外せば、塞がったはずのカサブタが裂けて血が顔を覗かせる。やれやれと戸棚まで歩いていって手を伸ばすと、救急箱を取り出して染み出した血を拭き取っていく。
(『人形のくせに血を流しおって』、でしたか)
まだ幼い頃に連れ回されて見せられた、最早名も忘れた二流芝居の台詞を思い起こして苦笑いする。あれも確か、上位者が人を望みのままに操り自分の理想に仕立て上げるものでしたね。
ーーやはりくだらない、僕を踊らされるのは。
ボクらは誰かを踊らせる側であって、誰かに踊らされる側じゃない。誰にも踊らせない、両親にも、なっちゃんにも、天塩さんであっても、司だとしても。
私は、ただの司であって、棗なのだから。
「なっちゃん、入るよ」
ノーノックで棗の部屋の扉を開けると、すかさず消毒液のボトルを拳銃のように構える。
「つー、もうご飯できたの? 早くない?」
ベッドでごろごろする棗に向けてスプレー発射オーライ。
「げほげほっ……つーちゃん、相変わらず挨拶がひどいね」
「なっちゃんはバイ菌」
「ひどくない? 」
「だって女臭いんだもん、また誰か連れ込んだでしょ」
「ひどいな、連れ込んだんじゃなくて今から連れ込」
問答無用。
「いたたっ、目に入るからやめっ」
「存在が不潔までランクダウンしよっか? 」
「つーちゃん冗談キツイって」
はぁやれやれ。なっちゃん相手に貴重な消毒液を大量に使っちゃったよ、また買いに行かなきゃ。
「今日もご飯来るんでしょ、その前に」
「分かってるよ、服着替えてシャワー浴びて全身除菌しろ、でしょ」
「分かってるなら言う前にやって欲しいな」
「はいはい」
のそのそとベッドから這い出したなっちゃんは、そのままバスルームへと直行する。せめて制服ぐらいは脱げばいいのに。
っと、ここに来た目的を忘れるところだった。今のうちに。
えーと、なっちゃんのノートはっと………あれ?
「つー、探し物はこれ? 」
その声に振り向くと、確かに探し物はなっちゃんが持っていて、
「…………なっちゃん、気づいてたんだ。ボクがノート盗み見てたの」
「薄々ね。だってつーちゃん、入れ替わった時の『棗のなり方』が上手すぎるもん」
はい、と手渡されたノートを受け取ろうとして寸前で引っ込められる。不満げに手を伸ばせば、ニヤニヤ笑って数ページぱらぱらとめくる。
「天塩 木染、150センチぐらい、眼鏡、バレー部、努力タイプ、上から」
「なっちゃん」
冷ややかな声を挟む。
「…………分かってるよ、つーちゃんの邪魔しないから」
ぽいっとノートを投げてよこす。
「書き加えたり失くしたりしないでね、そっちが『ボク』なんだから」
「はいはい」
今度こそバスルームに消えたなっちゃんを横目に、ノートを繰る。このノートはなっちゃんがせっせと集めた、話した相手の名前や特徴を記したもの。これを元になっちゃんは、『棗』や『司』『泉見のお嬢様』を『自分』にインストールして相手の望むままの『姿』になる。時々はボクも読ませて…………いや、盗み見てるんだけど、
(天塩さんはやはり侮れません、か)
なっちゃんの評価を改めて読み直して、天塩さんへの興味をひとつ後ろに進めた。