拾余玖:触レラレテ
「はい、これで王手ですね」
「ぐぅ…」
「これで締めて26連勝ってとこですか」
「つ、司ちゃんのいじわるぅ…」
「どうとでも」
改めて駒を元の位置に戻そうと手を伸ばして、ようやく外の暗さに気が付いた。そのまま視線を壁の時計に移せばもう18時。もうそろそろ夕飯時ですね。
「今日はこの辺で終わりにしますか」
「や、やっと終わった……」
テーブルにぐでんと突っ伏す天塩さん。下手を打つとそのまま寝てしまいそうな様子に、満足しかけた欲求がまた顔をのぞかせて、
「ヨダレ垂らさないでくださいね?それ高いんですから」
「しないよ流石に…」
「しそうだから言ってるんです」
「ひどくない?」
別に非道いとは全く思ってませんが。これが棗だったら盤面もろとも消毒液に沈めてるとこでしたが。
「さて、ボクはこれから夕食の仕込みに入ろうと思いますが……天塩さんはどうします?」
「あ、もうそんな時間?」
壁の時計を見上げた天塩さんが大きく伸びをすると、ポキポキと関節が鳴って、
「だいぶお疲れのようですね」
「うん、わたしじっとしてるの苦手だからさ」
「でしょうねぇ」
対戦中ちらっと見てましたが、手に詰まるとすぐ貧乏ゆすりとかモジモジし始めますし。
「落ち着きがないなぁとはずっと思ってましたし、もう少し落ち着きを身に着ければ本業の方ももっと上手くなるのでは?」
「本業……それはバレーか授業かどっちのこと?」
「おや、天塩さんは授業を『業』と見ているのですか?」
授業なんて軽いひつまぶしでしょうに。
「……まさかとは思うけど、司ちゃん、授業なんて聞かなくてもわかるって言いださないよね?」
「あら、バレましたか」
「やっぱり……」
ひとつ大きなため息をついて、天井を見上げる天塩さん。
「あーあ、司ちゃんに勝てるものなんにもないや」
「ふふ、それは果たしてどうでしょうかね?」
立ち上がって窓の方を向く。
「ボク、いえ、司と棗は、天塩さん、あなたに勝てないものがたくさんあります。その自由さと、明るさと、前を向く気力、そして信じる未来があることと……周りに愛されていること。これは全部、泉見が持ち合わせてないものです」
「つ、司、ちゃん?」
困惑する声をバックに受けて、振り返って歩き出す。そして足元に見降ろすところまで歩み寄ると、
「天塩 木染さん。私は貴女が羨ましい。周りに常に誰かが居て、打算もなく喋ることができて、しかも誰かになる必要がない。素直に弱音を吐くことが許されて、それでいて強さを知っている。私は、あなたと……いえ、なんでもありません。忘れてください」
「……司ちゃん……」
今は二人だけの部屋、だから弱いことを言っても許される。不思議とそんな確信を持って、司は吐露する。目の前にいる、自分より幾周りも小さな少女に向かって。
「……なんだか湿っぽい空気にしてしまいましたね、すいません。もう話は終わりです。こんな時間まで引き留めてしまってすいません」
「つ、司ちゃん…」
……やっぱり、天塩さんを連れてきて正解でした。久しぶりに、演じることなく司になれたんだから。
「つ、司ちゃん……その……」
「……おや、どうしたんです?もう帰ってもいいんですよ?」
「その、それが……正座してたら、足がしびれちゃって…」
「はぁ⁉」
思わず演技も忘れて取り乱す。
「……ったく、ほら、掴まってください。今日だけは特別ですから」
まったく、いい感じに幕が引けると思ったのに。
「あ、ありが、とっ、ととっ⁉」
「えっ」
体重をかけられるのはわかってたけど、如何せん経験が足らなかった。引っ張りあげるのに力をかけたはいいけれど、それが強すぎて。
「うわっ⁉」
部屋がぐるりと回って、背中に強い痛みが走る。見上げた視線の先には天塩さんがのぞき込んでいて、その体を支える腕は床に突いていて、もう片方は……恐る恐る視線を移すと、しっかりと手をついていたその先は床じゃなくて、上半身の中の上の平たいところ、言ってしまえばそれは『胸部』というやつで。
「つ、司ちゃん⁉ その、ごめっ」
歪む視界をそのままに天塩さんを突き飛ばして、バスルームへと通ずる扉を乱雑に開いて一切合切を脱ぎ捨てる。そのまんま仕切りの扉を閉めることすら億劫にして片手で操作すると、壁のシャワーヘッドが吐き出すものの温度も水量も気にする余裕すらもかなぐり捨てて、ただただ降り注ぐものに身を預けた。そして、その手の置かれていた場所をずっと見つめ続けて、湧き上がる感情をただただ流して、沈めて、無くそうとして……ボクは、ボクを捨てようとした。




