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携帯電話を川に捨てた

作者: ヒカル

  「携帯電話を川に捨てた」




 昨日私は、携帯電話を川に捨てた。

 春を迎えたばかりの風が、涼しげに私のカーディガンを揺らした。

 はりきって履いてきた春物のレースのスカートが、私の左膝をあらわにした。

 少し寒いと思ったけれど、めくれるスカートをよそに、橋の上から川を眺め続けた。

 最後の結論を下したのは私だった。

 一カ月前、6年付き合ったひろしから別れたいと言われた。

 その時の衝撃を、私ははっきりと覚えている。

 

 いつものように私は仕事を終えて、ひろしのアパートへ向かい、その日はいつもより早く帰ったひろしが料理を作りながら、私を待っていた。

 「ただいま」

 「おかえり」

 ひろしは、台所に立ったまま表情を変えずに包丁を握ったまま答えた。

 そのやりとりは、結婚した夫婦に子供ができず、2、3年続いた二人のように思えた。

 ひろしは、黙々と包丁を手に野菜を刻んだり、沸かしている出汁を味見したり、洗い物をしたりしていた。

 料理を手伝う気にはなれず、私はいつものようにテレビを眺め、ひろしが作る料理が出来るのを待っていた。

 そして、その日も私はひろしに抱かれたいと思っていた。

 ひろしはのんべいで、その日も酔っ払っていた。

 「俺、料理好きだから、将来自分の店開こうかと思うんだけど、どう思う?」

 そんな話、今聞きたくないわ。とは言えず、私は答えた。

 「ひろしの料理は本当においしいと思うよ。ひろしは天才だよ。音楽もやってるし、小説も好きだし、料理もできる。」

 ほんの少しの揶揄を込めたつもりだったけれど、思いのほか、ひろしが憤慨した。

 「あのさ、本当のことを言ってくれよ。なんか軽いんだよね、ようちゃんとの会話っていつも。私のことじゃないから、どうでもいいみたいな。いっつも・・・」優しいひろしは、そこまで言うと言葉がつまり、沈黙が流れた。

 その日のひろしの料理は、豚汁だった。

 無言のまま、できた豚汁をどんぶりによそって私の前に置くと、安ワインを一口あおってひろしは話はじめた。

 酔っ払った時にしか大事なことを言えないひろしが、私は嫌いだった。

 だから、この時も何か嫌な予感がしたから、斜に構えて豚汁を啜りながら、ひろしの顔を横眼で見ていた。

 「ようちゃんさ、一から全てをやり直したいって思うことない?」

 『ハジマッタヨ』と私は思った。

 普段はとてもいい人で、表向きの顔も裏向きの顔もなく、正直で、ひろしを信頼する友達や、後輩がたくさんいて、羨ましいほどだった。

 だけど、酔っ払ったひろしと話をすることだけには、私は心底うんざりしていた。

 私は、深夜番組でやっているさしておもしろくもない新人お笑いタレントのコントを、大げさに笑って聞こえないふりをした。

 テレビに夢中で、豚汁を啜りながらもテレビから眼を離せないわがままな子供を演じていた。

 ひろしも、慣れていた。

 聞き流された会話に執着することはなく、煙草に火をつけ鼻歌を歌いながら、次の料理を作りに台所に行った。

 ただ、ひろしは本当に私がテレビに夢中で話を聞き流したと思っていて、私はしっかり聞いていて無視をしていたことに気づいていなかった。

 ひろしが出て行った後、テレビに向かって金魚の口を真似て『バーカ』と無言で言った。

 さすがに無視をされたことが寂しかったのか、鼻歌が大きくなり、鼻歌はやがてひろしの熱唱に変わっていった。

 近所迷惑なひろしに私は半分あきれながら、台所へ行った。

 「今度は何作ってるの?ひろちゃん?」

 いかにも機嫌を取りに来ましたと言わんばかりの私の行動に腹が立ったのか、「教えねえよ」とひろしは低い声で言った。

 だけど、怒ってはいないようだ。

 少し酒が入っているのと、ひろしは、本気で私が甘えにきたと思っているのだ。

 いったん料理を中断して、お玉と菜箸を手に持ったまま、やれやれという顔をした。

 「ひろちゃん、やっぱり天才だね。料理の才能あるよ。冬は、ひろちゃんの豚汁に限るね。」

 そんなことを言いながら、腹の底がむずむずしたけれど、本音を言って喧嘩になるよりましだと思って、ひろしの顔を見ると、やはりうれしそうだった。

 ひろしは、今日の料理のポイントを語り始めた。

 最初は頷いているふりをしていたけれど、話が長くなりそうだったので、携帯電話をとるふりをして部屋に戻った。

 新人お笑い芸人のコントはまだ続いていた。

 コントを見ながら、ひろしの鼻歌を聴きながら、今後のことを呆然と考えながら煙草に火を点けた。

 ひろしと付き合い始めた頃、私はタバコを吸っていなかった。

 いつの間にか習慣になってしまったけれど、ひろしと出会ってなければ煙草を吸うことなどなかったかもしれない自分にやけに腹が立った。

 きっと私はひろしと結婚する。

 そして、裕福ではないけれど、二人で仕事をしながら一人だけ子供を産む。

 子供が大きくなった頃、ひろしの酒癖が直っていたらいいのに、なんて思う。

 子供が小学生に上がるころ、ひろしは少し出世する。

 だけど、裕福ではないから、私もパートをする。

 少しずつ、少しずつ、ひろしは父親になっていく。

 私は、子供を産んだ瞬間に母親になる。

 ひろしは、やっぱり酒を飲む。

 私はひろしにはあきれて、子供を育てる。

 ひろしに対する愛情は、徐々になくなっていく。

 しかし、子供がいる。

 子供の誕生日とクリスマスは、幸せな家族の団欒を装う。

 やがて、子供は中学に上がり、物心が付き、大人へと成長していく。

 子供は反抗期を向かえ、私たちは苦しむ。

 そこまで妄想を膨らまして、考えるのを止めた。

 もしかしたら、私はひろしと一緒になっても幸せになれないかもしれない。

 ひろしが嫌いなわけではない。

 私は、今日もひろしに抱かれたくてひろしのアパートにいる。

 なんだか、時間が経ち過ぎてしまった気がした。

 「できた!」

 ひろしの声が聞こえ、私はまた演技をした。

 台所へ走って行った。

出会った頃のままでいたいのだ、私だって。

 「何々?超、楽しみにしてた。今度は何作ったの?」

 「ジャジャーン!鰤カマの煮付け。」

 鰤カマの煮付けを作りながら酒を飲んでいたひろしの頬が、赤くなっていた。

 「あのさ、さっきの話聞いてた?」

 鰤カマの煮付けを2人で頬張りながらひろしが言った。

 「何の話?」

 私はかぶりをふり、鰤カマに夢中なふりをする。

 「実直に言うとさ、」

 酔っ払った時のひろしはいつもそうだった。

 ドキっとするような暴言とも言えることを平気で言う。

 それが分かったけれど、私は鰤カマを頬張り続けた。

 あらかた予想はしたけれど、ひろしの言葉をとりあえず聞いた。

 「俺、お前と別れたいんだけど。」

 むかついた。

 なんだかとにかくむかついた。

 私はテーブルを手のひらで叩きながら、抗議した。

 「なんで、こんなに長く続いたのに、なんで?私は・・・」

 「俺、お前のこと好きじゃなくなったみたい。」

 『酔っ払ってない時に言ってほしいんだけど』

 私は、冷静に考えながらも腹の底が煮えくりかえっていた。

 ショックと言うよりは、怒りだった。

 私がどれだけひろしを期待し、ひろしが一人前になることを夢見て、ひろしを尊敬し、どれだけの時間寄り添い、待ち続けたのかを解ってほしかった。

 同時に、私から別れを言い出せなかった敗北感と、ひろしを失ってしまったら、抱いてくれる人がいなくなる不安感にさいなまれた。

 不思議なことに、ひろしに対する情みたいなもので胸が苦しくなるようなことはなく、私は冷静に怒っていた。

 そしてこの時、ひろしと私との間には、図太い杭がかけられたような気がした。

 「私も、けじめをつけなければいけないとは思っていたの。だけどこの話はあなたが酔っぱらっていない時、お互いに時間を作って、あらためましょう。」

 ここまで言うと、私は「今日は帰るね」と一言言ってひろしのアパートを出た。

 悲しくはなかった。

 怒りで今にも叫び出しそうだった。

 涙は一滴もでない。

 握りしめた拳に爪が食い込み、痣になりそうだった。

 怒りで足が震え、歯ぎしりが止まらない。

 なぜ?なぜ?なぜ?

 私は愛してもいない人と一緒にい続けようとするの?

 自分に、ひろしに腹が立ち、過去6年間を思い出してみたけれど、愛おしい気持ちにはなれず、ものすごく虚しい気持ちでいっぱいになった。


 


 私もひろしも連絡一つせずに一週間が経った。

 「今から行ってもいいかな。この前のこともあるし。」

 ひろしから電話がかかってくることは、めずらしい。

 なんだかんだ言っても、まだ別れていないのだし、こういう電話はただ単純にうれしい。

 「いいよ。」

 ほんの少しひろしを愛おしく思ったけれど、ひろしが家に来てがっかりした。

 酒臭い。

 しばらくは、テレビを見たりお菓子を食べたりしながらいつものように過ごして、ひろしはチューハイを飲み続け、私も休み前だったので一緒に飲んだ。

 気付いたら、私は結局ひろしに抱かれていた。

 ベッドの中でひろしは囁いた。

 「やっぱり俺お前のこと好きだ。この前はごめん。」

 ひろしが仲直りしたいときの、決め台詞だった。

 心に沁みることはなく、私はただひろしとの行為に没頭した。

 ひろしのことが好きなのか嫌いなのか、そんなことはどうでもいいことだった。

 6年間の二人の生活でできた欠かせない習慣のようなもので、私はその日頭が真っ白になるくらい激しく絡み、ひろしにしがみ付いた。

 一つのベッドで寄り添って寝たけれど、虚しさが残った。

 私はこの時、ひろしとの別れを心に決めた。


 そして私は昨日、携帯電話を川に捨てた。

 ひろしと私は、一度も会わないまま、一カ月を過ごした。

 私は、寂しさに負けて私から連絡することに耐え、 ひろしから連絡が入っても、誘いを断った。

 ちょうど1カ月が経った頃、私から連絡をした。

 喫茶店で待ち合わせをした。

 私は10分遅刻した。

 行きたくなかった。

 喫茶店の入り口でひろしの背中を見ると、ぞっとした。

 猫背のまま一点を見つめ、泣いているようにも見える。

何を言われても別れてやる決意を固めた。

 私は恐る恐るひろしと向き合い、コーヒーに砂糖とミルクを入れ、煙草に火を点けた。

 ひろしの眼が真っ赤に腫れている。

 二日酔いなのか、それとも私を想ってのことなのか分からない。

 「俺が言いたいことを言うより、ようちゃんが言いたいことを俺が聞いた方がいいと思うんだ。とにかく、今のようちゃんの気持ちを聞かせてくれないか?」

 「私は、ひろしのことを嫌いになったわけではない。だけど、ひろしと会うことに興味がなくなったの。お互い、甘えていたのね、自分に。」

 ひろしは私の言葉を聞きながら、大粒の涙をずっと流していた。

 ひろしは、ただ涙を流し続け、沈黙が続いた。

 逆に私は、涙を流し続けるひろしに興ざめしてしまい、完全に私はひろしに気持ちがなくなっていることを確認していた。

 「解った。別れよう。」

 ひろしは、呟き。

 私は、無言で頷いた。

 人目をはばからず涙を流すひろしに、私は情けなくなり、一緒に店を出た。 

 これだけ長い間肩を並べて歩いてきたのに、明日からはこうやって二人肩を並べることがなくなるかと思うと少し寂しい気がしたけれど、それよりも、早くサヨナラをして自由になりたかった。

 私は自分のアパートに戻り、ひろしとの6年間の思い出をどんどん捨てていった。

 大きなダンボールを部屋の真ん中に置き、そこへひろしの形見を片っ端から放り投げていった。

 ひろしからはじめてもらったプレゼント、手紙、何年か前の誕生日にもらった掛け時計、指輪、去年のホワイトデーにもらったネックレス、ひろしの歯ブラシ、寝巻き、お揃いのコーヒーカップやお箸、ライター、下着、靴下、ひろしとの思い出深い自分の服なんかも捨てていった。

 とにかく夢中でひろしを捨てて行った。

 ヒロシヲステテイッタ

 ようやく、思いつく限りのひろしの形見を全て放り投げ終わると、部屋の中心に陣取ったダンボールの中身は山になっていた。

 私はベランダに出て、夕暮れを眺めながら大きく深呼吸をした。

 春の風が涼やかに胸をいっぱいにした。

 どうやら2時間くらい何かにとりつかれるように、ひろしの形見を捨て続けたようだった。

 時計をみると、夕方の5時だった。

 アパートの地下にあるゴミ捨て場に向かった。

 ゴミ捨て場には誰もいない、うす暗い明かりがゴミの山を照らしている。

 私は両手でダンボールを持ち上げ、頭の上まで持ってきた。

 かなり重かった。

 二の腕がプルプルしたけれど、私の怒りは最高潮に達していて気にならなかった。

 そして、それを私はおもいっきりゴミ捨て場に投げつけた。

 ゴソっという鈍い音をたててゴミの山に突き刺ささり、私は息をきらせていた。

 私の息の音がゴミ捨て場に反響して大きく聴こえる。

 最後に一言安堵の溜息といっしょに私の声がゴミ捨て場に響いた。

 「これでいいんだ」

 それから私は最後の仕事をするために、昨日買ったばかりの春物のカーディガンとスカートに着替え、化粧をし直し、手ぶらで近所の川へ向かった。

 6,7メートルはある土手は春の息吹が吹き出し、雑草と菜の花が夕暮れの光に鮮やかに照れしだされ、穏やかに流れる霞川には鯉が戯れ、鴨が三つ子を引き連れ、川辺は、春の夕暮れに照らされてきらきらと揺れている。

 土手の両側に並んだ桜の木々はつぼみを付け始めていて、開花のタイミングを今か今かと待っているようだ。

 私は、土手に架かる小さな橋の真ん中に立ち、立春の風を体全体に浴びながら、しばらく川の流れを、沈んでいく太陽を眺め続けた。

 そして、予想した通り携帯電話を取り出してみると、ひろしからメールが届いていた。

 「今まで色々あったけど、ありがとう。ようちゃんが幸せになることをどこかで願ってるね。」

 過去に送られてきたメールファイルを一つ一つ眺めてみると、仕事のメール以外はほとんどがひろしからのメールだった。

 ひろしにメールを返す気にはなれなかった。

 最後に、最後のひろしからのメールを読み返し、私は携帯電話を川へ向かって放り投げた。

 ほんの少し上に向かって投げた携帯電話に沈みかけた夕日の光が反射した。

 その後は、真っ逆さまに川面に向けて落ちて行った。

 ポチャ!という小さな音が聞こえ、そこに泳いでいた鯉の群れが外側に広がった。

 私は、橋の上から川を眺め続け、春の風を浴び続け、そこまでやり終えると一気に涙が流れはじめた。

 こんなに泣いたのは久しぶりだった。

 とにかく涙が流れ続けて止まらない。

 日が暮れて、太陽が完全に地平線からなくなるまで私は泣き続けた。

 過去を捨て去ることはできない。

 私は、ある意味卑怯だったかもしれない。

 だけど、これから一歩踏み出すために、どうしてもそういうやり方しかできなかった。

 6年も付き合っていれば、もちろん嫌なことばかりではない。

 ひろしと付き合ったことで、私が得た大事なこともたくさんある。

 その逆も同じくらいあるけれど。

 キラキラ光った大切な思い出もたくさんある。

 私は、それがある限り大丈夫だと思っていた。

 一瞬でも、私はひろしを本当に、心底、愛した時が確かにあったのだ。

 ひろしが言うように、私は一から全てをはじめる決心をした。

 そのために私はひろしを失わなければならない。

 いいことも悪いことも、全て捨てて明日へ歩き出す。

 100%捨て去ることはできないことは分かっている。

 人は生き続けている限り、前に進まなければならない。

 ごめんね、ひろし。

 やっと素直になれた気がした。

 何か二人の人生に大事なことがある度に、私とひろしはその大事な何かを共有して、一緒に成長してきた。

 だから、これは自立なの。

 私とひろしの。

 本当は、けして捨てないし、忘れない。

 ひろしとはじめて会った日のこと。

 ひろしがはじめてデートに誘ってくれた日のこと。

 はじめてデートをした日、告白したひろしのことを。

 ひろしとはじめてキスをした日のことを。

 はじめてひろしと結ばれた日のことを。

 私は、ひろしの形見が全て無くなった自分のアパートに戻り、ベッドの上で泣き続けた。

 泣いても、泣いても、涙が止まらない。

 ひろしへの怒りは消えていた。

 失うものがある時、人はその大切なものが何なのかを見失っていることの方が多い。

 誰にも頼れない自分を自分で作ってしまった。

 弱っている時は甘え、うまくいっている時は冷たくした。

 どんな自分でいる時も、私は私で、強く生きることにあこがれていたけれど、現実の風は、思ったよりも冷たかった。

 私は、過去から決別して新しい人生を歩み始める。

 そのために、私はこんな方法しか思い浮かばなかった。

 許してほしい。

 私は、本気でひろしのことが好きだった。





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